1737話 伸ばした手
語りはじめは、何処か思い返すように言葉に詰まったりとぎこちなさが目立った亮だったが、注文した酒と肴が到着する頃には、その口は滑らかに回りはじめていた。
亮が語り聞かせ、テミスが問う。酒と肴を間に挟み、二人の会話には留まる事を知らず弾んでいく。
亮の妻の事。家で飼っていた犬の事。尊敬して止まない家族の事に、当時の町の様子や流行りなど。
話題を重ねる度に酒の徳利は数を増していき、肴も三皿ほど増えていた。
「こちらに来てからは、御国へ帰る事ばかりを考えていた。故に、他の者達とは異なり、魔王軍との戦いに加わることはほとんど無かった。なにせ勝手のわからぬ身だ、方々を彷徨い歩く他に無かった」
「ほぉ? ならば、北方のギルファーは見たか? 南方戦域のエルトニアは?」
「正直、覚えが無いな。凍て付く寒さに身を震わせた事もあれば、茹だるような暑さの中を気合だけで歩き切った事もある。この辺りからは少し離れているが、文献の中でしか見たことが無いような船で海を渡った事もあれば、アル……何と言ったか、森深くに住む者達と所帯を持った仲間を訪ねた時には、光差さぬ洞窟の奥へと潜った事もある」
「……っ! ふ……流石に長生きをしているだけはある。こちらの世界での見聞ではどう足掻いても勝てんか」
手元の刺身を摘まみ上げながら告げた亮に、テミスはお猪口を呷って酒を飲み干すと、カツンと音を立ててカウンターへと戻し、挑むような微笑みを浮かべて問う。
だが、悠然と微笑みを浮かべて答えを返した亮が語った情景の中には、テミスも知らないものも含まれていた。
なにせ、この世界に来て半世紀以上の時が経っているのだ。あちらとこちらの時の流れに違いがあるのかなど知る由もないが、テミスが亮に敵うはずも無いのは自然の摂理とも言える。
「こう見えて俺も長く生きた。だが、そうは言うがお前も数奇な経験をしていると見るが?」
「まぁな。魔王と知り合ったり、ギルファーの王と友誼を結んだり、戦いばかりの日々ではあるが、言われてみれば数奇かもしれん」
「謙遜するな。数奇も数奇だとも。俺の頭では、王の前まで突撃するなどという発想には至らん。どうにも不敬ではないかと思ってしまうのだ」
器用に刺身を頬張りながら話を続けた亮に、テミスは得意気な笑みを浮かべて自身の経験を語った。
尤も、細部にわたって話してしまっては一昼夜が過ぎても足りないだろうから、色々と省略しての内容ではあったのだが。
それでも、亮は大きく首を振ると、酒を呷って静かに溜息をもらす。
「できない……とは言わないのが末恐ろしいな。まぁ、あれ程の剣術を持っていれば当然の事か」
「敵方の数が判らぬが故に、何とも言えないだけだ。剣術と言えばふと思ったのだが……何故お前はああも力任せに剣を振り回す? 得物が違うとはいえ、基礎のきの字もないではないか」
「武器の扱いなんて私は習っていないからな。少しだけ剣道を齧った程度さ。こちらに来るまでは、剣など竹刀か木刀くらいしか振るった事など無かった」
「なんと……よもやそれ程とはッ……!!」
会話が弾むうちに、二人の間に揺蕩っていた警戒心は次第に綻び、今の二人の姿を見ただけでは、到底殺し合いに興じた間柄であるなどとは想像もつかないだろう。
しかし、こうして会話に花を咲かせるのもテミスの秘策の内で。
話の流れが剣術の方へと揺れた瞬間、肩を竦めてため息を漏らしたテミスの瞳がキラリと輝いた。
「我儘を言うのであれば、是非先達に教えを請いたいものだがな? 先日、友人から業物の刀を貰ったのだが、今一つ使いこなす事ができないんだ」
「……何を言い出すかと思えば。良いのか? この町にとって私は、捕らえるべき人斬りだろう?」
くてりと怪し気に身を歪め、テミスは不敵な笑みを浮かべて亮に問いを投げかけた。
しかし、それとなく放たれた言葉や態度とは裏腹に、紅い瞳は揺らぐ事無く亮を見据えていて。
だが、亮はチラリとテミスに視線を送りこそしたものの、空になったお猪口へ酒を注ぎながら、ニヤリと口角を持ち上げて問いを返した。
「構わん。幸い、死者は居ないのだ。遺恨が残れば私が引き受ける」
「この町の衛兵が優秀だっただけだ」
「働き口も用意しよう。黒銀騎団……軍のような場所が嫌だというのなら、居酒屋などやってみてはどうだ?」
「居酒屋の大将……か……。憧れはあるが、生憎お客に出せるような料理は作れんよ」
「ならば道場はどうだ!? この店を知っていたという事は、ファントの町は一通り見て回ったのだろう? 住み良い町であると自負している」
「…………」
そんな亮に、テミスは畳みかけるかの如く言葉を重ね、勢い良く身を乗り出して言葉に力を込める。
テミスの狙いとは、亮のファントへの勧誘だった。
この世界で帰る場所がないのならば、自身を受け入れてくれたこの町を帰る場所と定めれば良い。
帰還できる保証もない。たとえ帰還できたとしても、逢いたいと希う家族は既に居ないかもしれないのだ。
ならばいっそ、最早帰る事はできないと断じ、この町の一員として過ごせば……。
ともすればいつの日か、その乾いた心が満たされる日が来るかもしれない。
テミスの提案には、そんな願いすらも籠っていた。
「どうだろうか? 他にも何か希望があれば言ってくれ。必ず全て実現できるとは約束できないが、可能な限り叶えられるよう努力を――」
「――テミスよ」
パチリ。と。
更に言葉を重ねるテミスの言葉を遮るようにして、亮は手にしていた箸を机の上へと置くと、身体ごとテミスの方へと向き直って静かに口を開いたのだった。




