1730話 鉄の心
最後に残っているかつての世界の記憶は、思い出す事すら厭う程の地獄だった。
視界に映るのは鉄と血と溝泥。そして死体のみ。
辺りを漂う空気は爛れ腐れ、あまりの臭気に薄れた嗅覚ですら、臭いと感じてしまうほどの腐臭が満たしていた。
憎き鬼畜生共から逃れ隠れ、隙を窺っては襲い殺す。
我々の部隊が天照が大御神の御元へと召し上げられた頃には、この心はとうの昔に擦り切れ果てていた。
幸いにも、部隊の中で所帯を持っていた者は自分だけで、皆は御神から賜わった使命に心血を注ぎ、方々へと散って行った。
「……皆は、どうしているだろうか?」
ファントの町にほど近いの森の中で、亮はひとり木々の間から僅かに覗く星空を眺めながら、低い声でひとりごちる。
不思議と老いる事も、衰える事も無いこの肉体のお陰か、私は長い長い時を生きることができた。
既に年月日という感覚も失せ、日の昇りと陰りのみを頼りに生きている身なれど、随分と長い時が経った事だけは理解できている。
皆、魔族とやらとの戦の中で立派に死んでいったのだろうか。それとも、異なる世界にて連れ合いを見付け、子々孫々を残して幸せに逝ったのだろうか。
彼等の事でわかるのはただ一つ。
かつて御国の為に身命を捧げると誓い合った同胞は、恐らくもうこの世に居ないのだろうという事だけ。
今よりも昔に、最後に会った部隊の仲間である健太は、驚くほどに老いさばらえていた。
尤も、出会ったのはただの偶然で。何とかという村の、草を編んだ広いだけのあばら家に住み着き、若く美しい異人の娘と所帯を持っていた筈だ。
「わからん。俺には解らん」
脳裏に焼き付けた幸せそうなしわくちゃの笑顔を思い浮かべて、亮はゆっくりと首を振りながら唸るように言葉を零す。
所帯こそ持ってはいなかったものの、彼等にも御国に残してきた家族が居たはずだ。
だというのに、御国へ帰る事など忘れてしまったかの如く笑い、安穏と過ごして死んでいく。
何故、彼等がそのような道を選んだのかはわからない。
けれど、彼等とて彼らなりに考え、選び抜いた人生なのだろう。
なればこそ。あとたった一度で構わない。
私だけでも故郷へと帰り着き、泣きながら見送ってくれた母に、誇らし気に胸を張って送り出してくれた父に、妻に、そして兄弟たちに逢いたい。
ただそれだけを糧に。今日この日まで生き永らえてきたのだ。
「ッ……」
望郷の思いに胸が疼くのを感じた亮は、ぎしりと歯を食いしばって静かに目を瞑った。
このような心持ちを抱いてしまうのはきっと、あの少女の眼を見てしまったからだろう。
長い白銀の髪に煌々と輝く灼眼。異人だらけのこの世界で、姿形こそ大きく異なれど、よもや武士の瞳を垣間見ることになろうとは。
懐かしい眼だ。
希望に溢れた美しい輝きと、燃え盛る炎のような猛々しさが同居した綺麗な瞳。
異なる地に生まれ落ちようとも、あのテミスとか云う少女が胸に抱いていた思いは、紛れもなく誇り高き大和魂だった。
「ただ一つ……惜しむらくは、彼女が敵であったことか」
自身へと向けられた鋭い眼差しに微笑みを零すと、亮は自身の息遣いすら聞こえてきそうな程に静かな闇の中でぽつりと零す。
御国への帰還。我が悲願を叶えるためには、彼女が守護するというあの町を贄に捧げなければならない。
これもまた、恐らくは神が与えたもうた試練なのだろう。
こちらの世界へ残る道を選ぶのか、それとも御国へ帰らんとする我が悲願を果たすのか。
ともすれば皆も、このような試練を与えられたのやもしれない。
心優しく、気の良い皆の事だ。肩を並べて戦えばすぐに、戦友など山ほどできた事だろう。
妻と娶った連れ合いが居れば、見棄てる事などできなかったに違いない。
だが、ただ一念に帰郷を願い、彼方の家族を思い続けた私は無論、答えなど問うまでも無く決まっている。
それが故に、彼女とは決して相容れない訳だが。
「それでも。私は……ッ!!」
言葉と共に、亮はギラリと両目を開くと、僅かに覗く星空へ向けて手を掲げ、固く拳を握り締めた。
たとえ何を犠牲に捧げようとも、必ず御国へと帰り着いてみせる。
それこそが、この世界へと赴いてから一度たりとも絶やした事のない、亮の揺るがぬ信念だった。
「計画は変わらない。僅かばかりのこの手向けの時間、別れを惜しむ為に使うも、私に備えるために費やすも自由だ」
亮は自らの決意を届くはずも無い言葉に乗せて紡ぐと、横たえていた体を起こして姿勢を正し、胸の内で祈りを捧げたのだった。




