1704話 目覚めの時
深夜。
全身を蝕む苦痛に喘ぐ、テミスの絶叫の声すら枯れ果てた頃。
エルリアとアドレスの介抱を受けたシズクは静かに目を覚ました。
だが、シズクは自身が気絶していたことや、テミスが薬を飲んだ事は覚えていたものの、自身が倒れ伏したテミスに駆け寄り、殴り飛ばされた事は記憶から抜け落ちていた。
しかし、二人から懇切丁寧に説明を受けたシズクは、未だに苦しみ続ける様子に加えてズキズキと鈍い痛みを発しながら腫れた頬の痛みから、間もなく現状を正しく把握する。
「三日……三晩……ですか……」
シズクは僅かに血の味が残る口でゴクリと生唾を飲み下すと、神妙な面持ちで言葉を漏らす。
その視線の先には、長い髪を振り乱しながら、今も尚掠れ消えた苦痛の絶叫をあげ続けるテミスの姿があった。
尤も、テミスは虚空から繋がり出でた金色に輝く鎖に拘束されたうえに、ルードに抑え込まれた状態だったのだが。
「止めるんじゃあないよ。二人共必死なんだ。邪魔をしちゃいけない」
「大丈夫です。理解しています。テミスさんの為……ですよね」
「……! へぇ……」
「拳は血が滲んでいますし、額も切っている……。苦痛で暴れたテミスさんが傷付かないように……お二人は捕らえているのでしょう?」
「その通りだ。悪かったよ。野暮を言ったね」
身を起こしたシズクを咎めるように告げたアドレスだったが、揺れる事のない口調で返された言葉に感嘆の息を漏らした。
この屋敷で起居するようになってから、エルリアとアドレスの間でのシズクの評価は決して高いものでは無く、強さこそ秀でているものの、テミスの後を付いて回る忠犬のような印象が強かった。
けれど、居住まいを正したシズクの姿を見て、アドレスは即座に己が認識を改め、続けて紡がれた謝罪には、密かにシズクを侮っていた事に対するものも含まれていた。
「いえ。見たところ、悔しいですが……私にできる事は無さそうですね」
額に球のような汗を浮かべ、目を瞑ったまま杖を握り立ち続けるニコルと、テミスを直接拘束したまま床の上を転げ回っているルードの姿を眺めながら、シズクは床の上に腰を下ろして背筋を伸ばす。
これはきっと、テミスさんが私を止めてくれたんだ。
テミスに殴られたという腫れあがった自らの頬を撫でながら、シズクは胸の中でそう独りごちる。
苦しみながら薬を飲むテミスさんを見ていた私の心は、ただただ恐怖と心配で満たされていた。
だから、飲み終わった途端にテミスさん目がけて駆け寄ったと聞いて、すぐに納得ができたのだ。
何故なら、不安で不安でたまらなかったから。きっと、薬を飲み干して尚、あれ程までに苦しみ続けるテミスさんを見てしまったら、私は冷静ではいられない。
謀られたのだと勘違いして、手を離す事の出来ないニコルさん目がけて斬りかかっていたかもしてない。
それを止めるために、テミスさんはきっと私を殴り飛ばしたのだ。
「……なんて、流石に都合良く考え過ぎですね」
「ん……?」
自虐の笑みを浮かべながら、シズクは耽っていた想像を断ち切ると、傍らで首を傾げたエルリアに微笑みを返した。
テミスさんはいま、私では想像すらつかないような苦しみの中に居るのだ。
そこまで考えが回らないなんて一目見るだけでも想像の付く事だし、きっと私が駆け寄った事もわからなかったに違いない。
けれど。もしもそうだったのなら、どれ程幸せだろうか。
都合のいい想像の名残に浸りながら、シズクは揺れる事のない視線を静かにテミスへと向ける。
その目はもう、恐怖や不安でなど揺れてはおらず、ただテミスが無事に戻ってくるという信頼だけが宿っていた。
「…………」
それから、無限にも思えるほどの長い時間が過ぎた頃。
これまで、藻掻き暴れ続けていたテミスがピタリと動きを止め、常に響いていた亡者のような掠れた呻き声も聞こえなくなる。
それから優に数秒の間、ルードとニコルは緊張した面持ちで視線を交わしてから、ルードはゆっくりとテミスから離れ、ニコルはクルリと杖を回して、テミスを拘束していた金色に輝く鎖を消滅させた。
そして……。
「……気分はどうだい? テミスちゃん。気はしっかりと保っているかい?」
「…………」
ニコルは床の上に倒れ伏したまま動かないテミスへ向けて慎重に歩み寄ると、数歩の距離を置いて問いを投げかける。
しかし、テミスは荒い呼吸を繰り返してこそいるものの、ニコルの問いに言葉を返す事は無く、しばらくの間は乱れた息遣いだけが部屋の中に木霊した。
「……フゥム。息はあるし、視たところ薬は正しく効いたみたいだけれど……」
「ッ……! 最悪の……気分だ……。だが……」
そんなテミスを眺めながら、逡巡するようなため息と共にニコルが言葉を漏らした時だった。
ググ……と床の上に横たわったままだったテミスの身体が持ち上がり、しゃがれた声が部屋を支配する沈黙を破る。
しかし、疲労困憊のテミスが独力で体を起こす事は叶わず、その場で寝返りを打つように体を捻ると、ドサリと仰向けに床の上へと寝転がったのだった。




