1702話 地獄へ進み入りて
「覚悟は……できたようだね」
ニコルは静かに進み出たテミスに瓶を手渡すと、小さく微笑んで一歩退く。
その短い言葉からは、ニコルの複雑な感情が伝わってきて。テミスはただ、感謝を込めて頷きを返した。
「…………」
「テミス……さん……」
「シズク。介錯は任せる。もしもの時は躊躇うなよ」
「ッ……!!!」
震える声で自らの名を呼んだシズクに、テミスは不敵な笑みを浮かべてそう告げてから、大きく息を吸い込んで薬瓶へと視線を向ける。
ここは既に死地の狭間。あと一歩進めば、途方もない地獄が待ち受けているのだろう。
けれど。事がここに及んでもはや逃げるという選択肢は無く、テミスはゆっくりと瓶の蓋を開けた。
「っ……」
それを合図としたかのように、眼前のニコルがボソリと何かを口走ると、食堂の壁が淡く青色を帯びる。
ニコルの手によって張られた結界が、屋敷を護る為のものなのか、それともテミスをこの部屋から出さないための対策なのかはわからない。
だが、テミスは気にも留める事無くゆっくりと息を吸い込むと、瓶に口をつけて一気に口内へと薬を流し込んだ。
「ヴッ……!!!」
瞬間。
テミスは全身が口内を侵略した劇物を拒絶するのを感じ取ったが、本能を気合でねじ伏せて一気に飲み下す。
薬の味は、前もってニコルに告げられた通り、おおよそこの世の物質とは思えないほど酷いものだった。
例えるのなら。雑草を煮詰めたような青臭い苦みと、舌を刺すような渋味が、生魚の腸が如き生臭さを纏っているかのようで。
それに加えて、時折顔を覗かせる痛みすら感じるほどの辛みや、べっとりと粘つくような甘味、そして腐った食材を口にした時のような嫌な酸味までもが追い打ちを仕掛けてくる。
しかしそれでも、吐き戻す事は死を意味するが故に、一度薬に口をつけたテミスができる事は、ただ必死にこの劇物を喉の奥へと送り込んでいくことだけだった。
唯一。幸いだったのは、ニコルのテミスがニコルの忠告に従い、大きく飲み込んだ一口目以降も、止まる事無く薬を飲み続けた事で。
勢い良く傾けられた薬瓶は、既にこの時点で半分ほどが空になっていた。
「っ……!」
その様子を固唾を飲んで見守る一同の間には、どうしようもなく張り詰めた気が緩んだ気配が流れ始める。
特に、テミスの背後で刀袋から柄だけを覘かせて構えるシズクの顔には、既に安堵に似た微笑みまでが浮かんでいた。
だが……。
「……ここからだよ。来るぞ」
「ヴゥッ……!!」
「ッ……!?」
低い声でニコルが呟きを漏らした途端、順調に薬を飲み干していたテミスに異変が生じた。
恐らくは、酷い薬の味に耐えていたのだろう。薄っすらと目尻に涙すら浮かべて細められていた目が大きく見開かれ、瓶と薬で塞がれた口からは苦悶の声が漏れる。
この時、瓶の中に残っている薬は全体量の三分の一程度が残っていた。
「悪いけれど。容赦はしないよ」
「モ゛ッ……!! ッ~~~~~~!!!!!!」
ごぼり。と。
苦し気に喘ぎ、くぐもった叫び声をあげながらも、徐々に薬を飲んでいるテミスに対して、ニコルは冷たく告げてから、離れかけた薬の瓶を口の中へと押し戻す。
それによって、逃げ場を失ったテミスの口内には再び大量の薬が流し込まれ、口を塞がれたテミスの絶叫が部屋の中に響き渡る。
「クッ……暴れるなッ……!! キミだって死にたくはないのだろう!! 飲めッ! 飲むんだッ!! チィッ……ルード! 手を貸しておくれッ!」
「応ッ!」
嫌々と薬瓶から逃れようとするかのように、テミスは頭を左右に振り回すが、瓶の底を掴んだニコルがそれを許さなかった。
その間にも、薬瓶の中身は順調にテミスの口内へと流れ込んでいき、ニコルが助力を求めて叫んだ頃には四分の一ほどを残す程になっていた。
だが、そこからの短い時間はまさに死闘と呼ぶべきひと時だった。
ニコルの求めに応じて飛び出したルードが、涙を零して薬を拒絶し始めたテミスを抑え付け、ニコルが最早テミスが口に咥える形となった薬瓶を押し込み続ける。
口内に注がれ続ける薬から逃れるべく、力任せに振るわれるテミスの両手はルードの力強い腕がその役を阻んだ。
そんな死闘が数分間に渡って繰り広げられた後。トクトクッ……と小気味の良い音を奏でながら、瓶の中に残っていた薬が全てテミスの口の中へと流れ込んでいく。
瓶が空になった後も、テミスが喘ぐたびに数度薬が逆流したものの、遂に口の中に流し込まれた分も含めて、全てが飲み干された。
「ッ……ゲホッ……ガハッ……!! ウ……グッ……!!」
「ゼェッ……ハァッ……!! 相変わらず……細っこい身体の癖に……とんでもねぇ力だぜ……」
「でも……これでッ……!! テミスさんっ……!!」
テミスが薬を飲み干したのを確認し、ニコルがテミス口から瓶を抜き取ると、身体を拘束していたルードも荒い息を吐きながら解放する。
同時に、テミスは激しく咳き込んでその場に倒れ込み、ぶるぶると全身を震わせた。
けれど、刀の柄に手を番えたまま、ただ状況を見守っている事しかできなかったシズクには何よりの朗報で。
歓喜の声をあげながら、四つん這いの格好で震えるテミスの側へと駆け寄った。
しかし……。
「馬鹿ッ!! 近付くなッ……!!」
「あッ……ア゛ア゛ア゛ァァァァァァッッッッッ……!!!!」
「えっ……――ッ!!!!!」
鋭い声でニコルが警告を発した瞬間。
凄まじい絶叫と共に空を薙いだテミスの腕がシズクの顔面を捉え、鈍い音を響かせながら宙へと吹き飛ばしたのだった。




