1700話 弄魂の霊薬
「……では今度こそ。誤解の無いように先に言っておくと、ギル坊の分が完成するまでにはまだあと二日ほどかかる」
ゴトリ。と。
ニコルは静かな声でそう語りながら、大きなフラスコ状の瓶を食卓の上に置いた。
その大きさから鑑みるに、優に二リットル程はありそうで。加えて中を満たしている薬品の毒々しい色に、一同は期せずして口を閉ざす。
「だからこれは、テミスちゃん。キミが本当の力を取り戻すための薬……という訳だ」
「……っ!?」
「本当の……力……?」
「へっ……」
「…………」
訪れた静寂の中を朗々と響く眠気を孕んだニコルの声に、今はじめてテミスたちの真なる目的の片鱗を知ったエルリアとアドレスが驚愕の息を呑んだ。
一方で、元より事情を知るルードとシズクが大きな反応を示す事は無く、せいぜいルードが皮肉気に頬を歪めた程度だった。
「……随分と量が多い気がするが。これを飲み干せばいいのか?」
「おっと。その前にいくつか注意事項だ」
眼前に安置された酷く毒々しい見た目の薬品に、テミスは凄まじい拒絶感を覚えながらも、覚悟を決めて問いながら瓶へと手を伸ばした。
しかし、そんなテミスの覚悟を空振らせるかの如く、ニコルは一足先に手を閃めかせると、瓶を抑えて言葉を続ける。
「まず一つ。見た目から想像して貰えるだろうけれど、この薬は酷い味だ。なにせ効能が効能だから、流石のワタシでも味まで調整する余裕は無くてね」
「そして二つ目。いくら不味くても決して吐き出さない事。一度飲みはじめたら、もう後戻りはできない」
「次に三つ目。これはちょっとしたアドバイスのようなものなのだけれど、最初になるべく多く飲み込んで、量を稼いでおいた方がいい」
テミスへ突き付けるかの如く持ち上げた手で指折り数えながら、ニコルは微笑と共に淡々と話続けた。
しかし、それはどれもテミスにとっては想定の内で。
何故ニコルがここまで念を押して注意を述べたのか理解ができなかった。
だが……。
「……四つ目。この薬は即効性だ。個人差はあるものの飲んですぐに効果が表れ始める。けれどその際、全身が……否、それ以上かな。身体の内側と外側全てが灼き尽くされるような激痛がキミを襲うだろう。恐らくその痛みは、ともすればそれだけで気が狂ってしまいかねないほどの痛みさ。まぁ、これでも代償としては安い方だと思うよ? なにせ、薬如きで肉体と魂の両方に干渉して繋げるなんて所業を成すのだからね」
「ッ……!!」
僅かな沈黙を枕に淡々と告げられた注意に、テミスの頬を一筋の汗が伝う。
確かに、ニコルのいう事は尤もだ。けれど、眼前にそれ程の苦痛が待ち受けていると知って、自らのそれをすんなりと受け入れられる事が出来る者など多くは無い。
無論、テミスとてその例に漏れず、必要であると理解してはいるものの、今にも逃げ出したい思いが胸中にまろび出る。
「最後……五つ目。最重要事項だ。シズクちゃん。そこに置いてある包みの中の一振りと、キミが腰に佩いている一振り……どちらが切れ味が良いかな?」
「……? でしたら、間違い無くこちらの白銀雪月花かと。テミスさんからお預かりしている一振りですが、今この辺りに存在する刀の中では随一の切れ味だと思います。今日この後でお返ししようと思って持ってきていたのですが」
「ふふ……。これを運命と見るべきか、はたまた直感と言うべきか……」
遂に重ねられた注意事項が五つ目に達した時。ニコルは開いて翳す形となった掌をテミスへと向けたまま、傍らのシズクへ視線を向けて問いかける。
すると、シズクは驚いたように耳をピクリと跳ねさせた後、自らの側に置いていた刀袋を開いて、白銀雪月花を取り出しながら答えを返した。
刀の切れ味が、何故今この注意事項に含まれるのかはわからない。
だがそれが、間違い無く凶報である事はこの場に居合わせた全員が察していて。
ただ一人穏やかな笑みを浮かべたニコルが言葉を止めた事で生まれた沈黙の中を、ゴクリと生唾を呑む音が木霊する。
「まぁ、今は置いておこう。テミスちゃん。万に一つ……万が一の場合だ。キミがこの薬を全て飲み切る事ができなかった場合。即ち、盛大に吐き出すか、おおよそ十秒から数十秒のあいだ嚥下が止まった時だね。ワタシたちは即刻キミの首を斬って落とす」
「……ッ!?」
けれど、紡がれた内容はテミスたちの想像の上を行くもので。
驚きの衝撃に息を呑んだテミス以外の者達は、驚愕の表情を浮かべたままその場で凍り付いたように動きを止めた。
「仮にもコイツは秘薬霊薬の類だ。中途半端に摂取した場合、魂と肉体に半端な干渉が行われ、テミスちゃん……キミは正常な魂を求めて暴れ狂う化け物へと成り果てるだろう。キミほどの力だ……その強さはこの間の大きな黒い騎士なんか比べ物にならないほど強力で凶悪なはずさ。だから、キミが諦めた時、苦しみに屈した時には……他に被害が出る前に死んでもらう」
「…………」
「選ぶのはキミさ。前にも伝えた通り、今のままでも無理さえしなければ、しばらくの間は死にはしないはずだよ。それが一年にも満たないのか、一生続くのかはわからないけれどね。だから、覚悟が足りないと思うのなら、薬を作ったワタシの苦労など掃いて捨てていい。ただその場合、この薬は危険だから破棄させて貰うし、ワタシも二度とは作らないけれどね」
ニコルはそう言い切ると、驚愕の醒めないテミスの見開かれた眼をじっと見つめ、自らが手を添えた瓶の表面をスルリと撫でたのだった。




