1698話 待望は近く
奇妙な声と共にニコルが姿を現すと同時に、積み上がっていた本の山が鈍い音を奏でながら崩れていく。
どうやらこの辺りの本は、積み重ねられていた訳ではなく、単に崩れて山のようになっていただけらしい。
「ニ……ニコル……!?」
予想外の登場に驚愕しながらも、テミスは未だドクドクと早鐘を打つ心臓に活を入れ、恐る恐る床の上に寝転がるニコルへと声を掛けた。
しかし、当のニコルが反応を示す事は無く、テミスが眺めている前でゆっくりと寝返りを打つと、傍らにいまだ積み上がっている本の山へ体当たりをして崩し、再び本の山の下へと姿を消す。
「っ……!! 本当に……何をやっているんだ……」
その冗談のような光景に、テミスの胸中を支配していた驚きや緊張をすっかり吹き飛ばされてしまい、呆れた溜息と共に言葉を漏らしながら、ニコルの埋まっている本の山へと近寄っていく。
確かに、暗がりになっている所為で酷くわかり辛いけれど、こうして近付いてみてみれば、下敷きとなったニコルの呼吸に合わせて、僅かに本の山が動いているようにも見えた。
「おい。起きろ。起きてくれ。ニコル! 寝るなら寝るで部屋へ行け……全く。お陰で要らぬ心配をする羽目になったわ」
本の山の傍らへと歩み寄ったテミスは、文句を垂れながらニコルの上に降り積もった本を退かして、下敷きとなっていたニコルを掘り起こした。
けれど、それでも尚ニコルが目を覚ます事は無く、何かを食べている夢でも見ているのか、もぞもぞと口を動かしながらテミスの腕の中で身を捩る。
「ハァ……。ニコル。ニーコールー! 私を驚かせた罰だ。意地でも叩き起こしてやるからな」
そんなニコルの姿に溜息を一つ重ねた後、テミスはぺしぺしと眠り続けるニコルの頬を軽く叩きながら、彼女の名前を呼び続けた。
だが、数度叩いた程度でニコルが目を覚ます事は無く、ニコルの名を呼ぶテミスの声と、頬を叩く音が数分にわたって薄暗い地下室の中を木霊する。
「んん……んんんッ……!!」
途中。ニコルは目を瞑ったまま何度も酷く鬱陶しそうにテミスの手を払い除けるが、頬を叩き続けるテミスの手が止まる事は無かった。
これで意識が戻らないのなら、一度ベッドへと運んだうえで、昏睡状態に陥っていると報せに行くべきだろうか?
そうテミスの内で、一抹の不安が鎌首をもたげ始めた時だった。
「んぁぁ……!! 何だよ……もぉ……ヒトがやっと寝入ったというのに……!!」
怒りの籠ったうめき声と共に、薄っすらとではあったが頑なに閉ざされていたニコルの目が開く。
「ニコル! 目を覚ましたか!!」
「勘弁しておくれよ。ここ数日は一睡もしていないんだ。もう眠くて……眠くて……」
「っ……! ま、待て! 目を閉じるな!! 薬! 薬は完成したのか!? 作業はどうなっているッ!?」
「……攪拌期は……終わったよ……あとは……煮詰める……だけ……」
「このまま放っておいていいんだな!? 火もそのままだが、問題無いか!?」
再び夢の世界へと旅立とうとするニコルを、テミスは叫ぶように質問を叩き付けながら、肩を激しく揺さぶって現実へとつなぎ止めた。
色々と面倒な事があったとはいえ、暇潰しに飽きてくるほど待ち続けたのだ。我ながら身勝手極まる物言いではあるが、今更失敗したなどという言葉は聞きたくもない。
だが。
「煮詰めると言ったな? 時折混ぜた方が良いのか? それとも――ッ!!?」
ニコルの肩を掴んだまま、テミスが矢継ぎ早にまくし立てていた最中だった。
突如としてニコルの右腕がゆらりと持ち上がり、間近に寄せられていたテミスの顔面を鷲掴む。
その掌に込められた力は大した強さではなかったものの、テミスは殺気と見紛う程の気迫を纏ったニコルに圧倒された。
「大釜に……少しでも触ってみろ……! ワタシは絶対にオマエを許さないからな……!! 薬はほとんど完成しているんだ!!! 余計な事は……する……な……よ……!!!」
テミスの顔面を鷲掴みにしたニコルはどのまま体を起こすと、テミスを押し倒すように圧し掛かりながら言葉を紡いだ。
今にも閉じきってしまいそうなほど細められていた目は見開かれ、血走って充血した瞳は完全に動向が開いている。
その迫力はすさまじく、テミスですら腰を抜かし、為されるがままに押し倒されてしまうほどだったのだが。
ニコル自身も、それが最後の気力と体力を振り絞った行動だったらしく、言葉を紡ぎ終わると同時にそのままテミスの胸の上に崩れ落ちて寝息を立て始めた。
「ッ……!! …………。了解だ。……ひとまず、もう少ししたら、お前をベッドへ運ぶとしようか」
そんなニコルに驚きを露わにしながら、テミスはすやすやと寝息を立てるニコルへ言葉を返すと、驚愕のあまり腰が抜けて動けぬ自分に、思わず苦笑いを零したのだった。




