1692話 平穏と傷痕
黒い騎士の軍勢を含む魔獣の群れを退けたゲルベットの町には、ゆっくりと平穏が戻りつつあった。
テミスたちの勝利を祝う宴は七日七夜にわたって続き、特にテミスが顔を出すようになってからの五日間は、途方もない盛り上がりを見せた。
無論。そんな宴の中心にいたテミスが無事で済むはずも無く。
連日朝まで飲み明かしては昼過ぎまで……時には夕暮れまで眠り、酒が抜けた途端にまたすぐさま酒を飲み騒ぐ。
そのような日々が、テミスだけではなくこのゲルベットの町を守り抜いた者達が送った宴の日々だった。
しかし、狂喜乱舞を具現化したかのごとき宴はとうの昔に終わりをつげ、今のゲルベットには以前とほとんど変わらない穏やかな日々が戻っている。
ただ一つ異なるのは、その日常の中にテミスたちも揺蕩っている所だけで。
「ふぁ……ぁ……ふ……」
期せずして訪れた穏やかな日々を、テミスは大欠伸と共に貪るように噛み締めていた。
今日も今日とて、テミスは町を一望できる外壁の上に腰を掛けて、何を考える訳でもなくぼんやりとゲルベットの町を眺めている。
「……暇だ」
あの黒い騎士の騒動から、そろそろ半月ほど経っただろうか。
近頃は宴の頃に刷り込まれた生活習慣の所為か、酒の量こそ劇的に減ったものの、怠惰に怠惰を重ねて織り込んだような生活を送っている。
尤も、何をするでもなく日々を過ごす怠惰な日々はテミスにとって望むところで。テミスは時折出かけては、偶然見つけた風の吹き渡る小高い丘の上で昼寝に興じてみたり、協調路線を歩み始めた双月商会や冒険者ギルドに立ち寄っては、冒険者たちとカードなんかに興じたリと、夢のように穏やかな日々だった。
「見付けましたよ!! テミスさん!! またこんな所でダラダラしてッ!!」
「ふ……」
だが。そんな緩んだテミスの日常を脅かす存在が一人、熱い息を荒々しくつきながら、穏やかな空気を怒声を以て切り裂いた。
けれど、ゼイゼイと息を荒げるシズクを前に、テミスは腰を上げる事すら無く、ただ涼やかに笑みを零しただけで。
「いったい何をしているんですか!! そんな爛れた生活を続けていては鈍ってしまいますよ!? さぁ、今日こそは私に稽古を……いいえ、私と一緒に稽古をしましょうッ!!」
しかし、シズクは構う事無くズンズンと大股でテミスの傍らへ歩み寄ると、手に携えたテミスの刀である白銀雪月花を差し出して言葉を続ける。
この刀は、あの日シズクが預かって以来、幾度となく返却を試みたもの、その度に煙に巻かれ今日まで来てしまったものだ。
シズクは、何故テミスがこうも頑なに白銀雪月花を受け取らないのかはわからなかったが、兎も角これほどまでに気の緩んだテミスを見る度に胸が締め付けられるように痛んでいた。
「……いいや。私は止しておくよ。気分じゃないんだ」
「っ~~~!! なら……どうしてッ……!! そちらの大剣はいつも肌身離さず持ち歩いているのですかッ!?」
「そりゃあ……いくら私でも、今の状態で丸腰で歩き回るのは危ないだろう? それくらいはわかるさ」
「いいえッ!! いいえいいえッ……!!! それだけなはずがありません! それだけな訳がありません!! まだ、何か心配事があるんですよね……? 私にだってそれくらいはわかります!!」
「…………」
まくし立てるようにシズクはそう叫ぶと、テミスへ向けて差し出したままの白銀雪月花の鞘を固く握り締める。
シズクがこの違和感に気が付いたのは、テミスを探し回るようになって数日が経ってからの事だった。
姿が見えなくなったテミスは、決まっていつもこういった街を一望できる高台か、見晴らしのいい丘の上なんかに居座っている。
しかも、魔王領へと続く東側の門の上や高台で見付けた事は一度たりとも無く、毎度西側の……アルブヘイムの方角に通い詰めているのだ。
「思えば、近頃ルードさんも見かけませんし……。テミスさんが稽古をしない理由は、有事に備えて力を温存しているから……違いますか?」
「ふむ……」
「ッ……! 私はッ!! テミスさんの護衛ですッ!! 力足らずかもしれませんが……何も話して頂けないのは……ッ……辛いですッ……!!」
曖昧な返答を返し続けるテミスに、シズクは堪らず自分の内に渦巻く激情をぶちまけると、ぽたりと一筋の涙を零した。
確かに先の戦いでは、シズクは巨大な黒い騎士を前に為す術もなく、テミスの殿を押し付けてただ逃げ出す事しかできなかった。
けれど、今もテミスはまともに戦える状態ではない。それを知っているからこそ、シズクはテミスが自らにまで内密で、何かに備えている事が悔しく、そして情けなくて。
一度決壊した感情は留まる事を知らず、嗚咽となって胸の外へと溢れ出ていった。
「シズク……。いや、すまない。確かに私が有事に備えているのはその通りなのだが、これはただの確認の為で、お前の手を煩わせるまでもない、他愛もない事なんだ」
そんなシズクに、テミスは目を丸くして驚きを露にすると、身を翻して立ち上がり、泣きじゃくるシズクを己が胸の内へと抱き寄せる。
そして、酷く困ったように眉を顰めながら、柔らかな言葉で諭すように口を開いたのだった。




