1690話 宴の只中へ
ニコルの勧めに従ったテミスは、澄んだ夜の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、シズクと共にゲルベットの町の中心部を目指していた。
しかしその傍らにニコルは居らず、彼女はこういった類の騒がしい酒宴は苦手らしく、『キミたちだけで行って来ると良い』と言って送り出されてしまったのだ。
尤も、テミスの鋭敏な耳は、屋敷の扉が閉まる寸前に紡がれた、楽しんでおいでという言葉を聞き逃さなかった訳だが。
「テミスさん。体調は大丈夫なのですか? 何といいますか……その……特にテミスさんは、中心街に着いたら沢山お酒を勧められると思いますが……」
「ン……あぁ、その点は問題無い。身体はもう回復しているとニコルにお墨付きをもらったよ。……とはいえ、ギルファーでの時のように万全な状態ではないがな」
「っ……! むしろ、万全の状態のテミスさんの方がおかしいんですよ。ヤタロウ様や父様たちと同じくらい……いえ、もっと飲んでいるというのに、次の日の朝には何事も無かったかのような顔をしているんですから」
「ハハ……私としては、酒に酔える貴重な機会という訳だ。潰れた私を屋敷に持ち帰る役目は任せたぞ? シズク」
「えぇっ……!? 待って下さい! まだ病み上がりなんですから程々にしましょうよ! それに、次の日辛いのはテミスさんなんですよ!?」
「翌日に地獄が待つと知っていて尚、止まる事ができない……。それが酒という飲み物を酒たらしめている魔性なのだよ」
「またそんな事を言って……。あっ! 本当に駄目ですからね!! キッチリと見ていますからねッ!!」
町の中心部へと続く道を、テミスとシズクは時に笑い合いながら、時にじゃれ合いながら、のんびりと歩を進めた。
そうこうしているうちに短い旅路は終わりを迎え、まるで衛兵よろしく道の端に立っている男がテミス達のにぎやかな声を聞きつけてクルリと振り返る。
瞬間。厳しく歪められていた表情は、花が咲いたかのごとく一気に明るい笑顔へと変わり、テミスたちを目がけて駆け寄っていった。
「目を覚まされたのですねッ!! ご無事で何よりですッ!! さぁ……どうぞお通り下さい!! 皆お待ちかねですよ!!」
「うぉぅっ……!? あ……あぁ……。ありがとう……」
「っ~~~!!! こうしてお会いできて、お声がけできた記念もかねて、是非ゆっくりとお話をしながら、一杯ご馳走させていただきたかったのですが、まず真っ先に、皆に英雄殿が目覚められたと報せて来ないとッ……!! 失礼しますッ!!」
「なっ……!? はぁ……? 今なんて……おいっ!? 英雄殿は止してくれ!」
テミス達の元へと駆け寄った男は、表情を輝かせながら早口でそうまくし立てると、テミスが制止の声をあげる間も無く歓声をあげながら駆け出して行ってしまう。
つまるところ、残されたのは虚空へ向けて手を伸ばしたテミスと、その隣で訳知り顔で微笑みを浮かべるシズクだけで。
困惑の表情を浮かべて伸ばしていた手をゆっくりと下すテミスに、シズクは自らの身体の後ろで手を組むと、軽やかにステップを踏んでテミスの前へと回り込んで顔を覗き込んだ。
「……なんだ? その顔は」
「いいえ。何でもありません。ですが、呼び名を改めるのは諦めるのが賢明かと」
「何故だ! そもそも、今回先陣を切って戦ったのはルードだろう!? というか、その為に奴を矢面に立たせたというのに……!! 何故ッ……!!?」
「いえ。あれだけ派手に黒い騎士の軍勢相手に立ち回れば必然かと。それに、最後に巨大な黒い騎士へ向けて放った月光斬。アレが決定的ですね」
「クッ……!!! ハァ……まぁ、こうなってしまっては仕方ない。シズク。私は極力目立たないように飲み食いをしているから、集まってくる連中の対応は任せる」
予想外が過ぎると言わんばかりに叫ぶテミスに、シズクは乾いた笑みを浮かべながら答えを返す。
確かに、名目上の作戦の総指揮はルードで、テミスは名を連ねているだけだが、あれほどの孤軍奮闘っぷりを披露しておいて知らん顔を決め込むのは無理があるだろう。
シズクは、思わず喉まで出かかった指摘を気力で飲み込むと、小さく肩を竦めて口を開いた。
「残念ですが、今回は私も盾にはなれませんよ。テミスさんほどではありませんが、一緒に行動していたお陰で私も似たような扱いです。テミスさんは欠席されていた分、逸話や武勇が盛りに盛られて大変な事になっていますが、ご自分のお客様はご自分で捌いていただかないと」
「ッッ……!!! 冗談じゃない。何だその状況は。聞いていないぞ。私は屋敷に戻る。今すぐにだッ!!」
「駄目ですよ。テミスさんは主役なんですから。それに、もう報せが走ってしまった後です。諦めて下さい。さ、覚悟を決めて行きますよ」
「嫌だッ!! 待てシズク!! そうだ!! まずは一度、屋敷に戻ってニコルも連れてこようッ! いや……なんだか体調が悪く……って、あぁぁぁぁぁぁっっ!!」
「はいはい。ここまで来て駄々を捏ねないで下さい。あと、その手の言い訳は皆の前ではやめてくださいね? きっとすごく心配しますから」
爽やかな笑顔と共に告げられたシズクの言葉に、テミスはヒクヒクと顔を引き攣らせると、長い髪を舞い上げながら身を翻す。
しかし、どうにかして逃れんとするテミスの腕を掴んだシズクは、淡々とした口調で諭しながら、戦勝の宴の中心へとテミスを誘ったのだった。




