1684話 旧き魔術師
ワタシがテミスの元へと辿り着いた時には、既に勝負は決していた。
見た事も無い巨きさとなった黒い騎士と、その手の内で今にも握り潰されんとしている友人。
もはや状況は『薬師』のワタシにはどうする事も出来ず、尻尾を撒いて逃げ帰るべきなのだろう。
けれど、気が付けば最後にいつ握ったかさえ忘れてしまった杖を取り出して黒い騎士目がけて魔法を唱えていた。
「…………風の衣」
僅かな驚き、そして自らへ向けた呆れに少しだけ放心した後、ニコルは巨大な黒い騎士の手から零れ、地面へ向けて墜ちていくテミスを包み込むように魔法を放つ。
久方振りに放った魔法はニコルの思い描いた通りの働きを見せ、激しく傷付きぐったりとしたテミスを優しくニコルの眼前へと運んだ。
だが。ニコルの元へ辿り着いたテミスへと視線を落としてみれば、そこでは緩やかに目を瞑っているテミスが居て。
それを見たニコルは、思わず懐に忍ばせていた水薬を取り出すと、流れるような動きで蓋を開け、僅かに開いた唇の隙間から口の中へと突き入れて思いを放つ。
「オイ。寝るな。起きたまえ。このワタシを出張らせたんだ。こんな所で投げ出すのは許さないぞ」
すると、くぐもった声を上げたテミスは驚いたように目を見開き、水薬の瓶を口に咥えたまま、信じがたいものでも見るかのような瞳でニコルを見上げながらパチパチと数度目を瞬かせる。
「ハァ……。こんな筈ではなかった。ただ完成したキミの薬を届けて、さっさと帰るつもりだったのに。大体、なんだい? あれだけ意気揚々と出て行ったクセにそんな体たらくかい? ボロボロじゃないか」
「っ……! モガッ!?」
「黙って飲んでいたまえ。少なくとも、その間はワタシの文句に付き合って貰うよ。キミにはその義務がある」
淡々と言葉を紡ぐニコルに、テミスがまるで文句でもあるかの如く口を開きかけるが、それよりも早く伸びたニコルの手が口の瓶を奥へと押し込み言葉を封殺する。
言葉を封じられたテミスは視線だけで抗議をするが、ニコルはクスリと笑みを浮かべると、満身創痍のテミスの身体へ目を向けて言葉を続けた。
「これほど肝が冷えたのは何百年ぶりだろうかね。そう気軽に死なれては困るんだよ。ワタシは友人が少ないんだ」
「……!」
「前に酒を酌み交わしたのだっていつの事だったか……。あの夜は本当に楽しかった。あの素晴らしい時間を失ってしまうくらいなら、ワタシが自らに課した『禁』を破るなど訳の無い事だよ」
そのまま、ニコルは何気ない調子でテミスへと語り続けたが、傷へと向けられていた視線は僅かに明後日の方向へと逸れ、頬には微かに朱がさしている。
無感情に告げられた言葉ではあったものの、まろび出た隠しきれない感情が、ニコルの真なる思いを何よりも如実に物語っていて。
テミスは窮地から救われた実感を噛み締めると同時に、ニコルへ親しみに似た温かい感情を抱いていた。
「……っと。まずは傷を治すとしよう。すまないが、その薬の生成でほとんどの魔力を使い果たしてしまっていてね。残念ながら、キミと肩を並べて戦うのは難しそうだ」
そう告げた後、ニコルは瞬く間に杖で空中に複雑な紋様を描くと、紋様から溢れ出た光がテミスを包み込んでボロボロの身体を癒し始める。
その頃には、テミスも口を封じていた瓶の中身を飲み干し終え、空になった瓶が胸の上へと転がり落ちた。
「ニコル……お前……」
「ふっ……野暮は言いっこなしだ。それに、キミたちには言ったろう? ワタシがかつて成した事を。戦いなんてモノは実に久方振りだけれどね」
未だに驚愕から抜けえないテミスに、ニコルは得意気な笑みを投げかけながら、細かく杖を動かして治療を続ける。
そんなニコルを見上げつつ、テミスは自らの背を戦慄が駆け抜けていくのを感じていた。
魔王軍で軍団長を務めるドロシーですら、足下に及ばぬ程に強力な繰る魔法が、ニコルの言葉が洒落や妄言では無く、伝承が御伽噺と化すほど昔から生きる大魔導士なのだと証明していた。
「……フム。まだ、もう少し待っていたまえ。お前を倒すのはワタシではないよ」
テミスの戦慄をよそに、ニコルの奇襲によって弾き飛ばされていた巨大な黒い騎士が再び立ち上がり、ニコル達へと狙いを定めて高々と剣を振り上げる。
だが、ニコルは視線すら向ける事無くクルリと杖を回転させると、金色に輝く大きな魔法陣を現出させ、放たれた黒い騎士の斬撃を易々と受け止めてみせた。
「安心したまえ。キミの獲物を横取りなんてしたりはしないさ。じきにその傷も癒える。それから、やられた分を存分に仕返ししてやれば良い」
大質量を持つ黒い騎士の剣が叩き付けられる轟音が響くも、ニコルの魔法陣は微かたりとも揺らぐ事は無く、テミス達の身を守り続ける。
そんな強固な守りを打ち破るべく、轟然と剣を叩き付け続ける巨大な黒い騎士を背に、ニコルはテミスに微笑みを浮かべて穏やかな声でそう告げたのだった。




