1681話 殿の撤退
「ぐぁッ……!!」
轟然と振るわれた巨大な剣が通り過ぎた後、宙に散った鮮血が淡く広がる。
空間すら両断してしまいかねないと錯覚するほどの強烈な一撃を、テミスはその身に傷を刻みながらも受け切っていた。
薙ぎ。突き。打ち下ろし。そして薙ぐ。
巨大な黒い騎士がその巨大な剣を振るった回数は既に二十を超えており、無感情なはずのがらんどうも、テミスの目には僅かに苛立っているかのように見えた。
尤も。たとえ欠片であろうとも感情の起伏を感じようとも、それは自身の心が生み出した、願望という名の歪みなのだが。
それを自覚しているからこそ、テミスは幾筋もの鮮血を流しながらも、次なる一撃に備えて大剣を構えた。
「…………」
あと、何回受けられるだろうか?
僅かに霞みがかった意識の中で、テミスは静かに自問する。
斬撃を受ける度に体中の骨が軋みをあげ、圧し負けた大剣の刃が肉を裂き、巻き上げられた地面の欠片や石が身体を打つ。
最早痛みも、疲労すらも感じない。思考は朦朧としているはずなのに、意識だけは強靭に現実へと縫い留められていて。
テミスは己の肉体を動かして戦っているにも関わらず、どこか他人事のような感覚に陥りながらも、神業に等しい防御を続けていた。
「ッ……!!」
そんなテミスに向けて、巨大な黒い騎士は今度こそ足元を這いまわる命を刈り取るべく、無感情に剣を振り下ろす。
しかし、剣が振り下ろされた刹那の間にテミスはゆらりと体をゆらめかせると、巨大な剣を自らの大剣で打ち据え、斬撃の軌道を逸らした。
弾き受け。今のテミスが行っているのは、通常の敵の攻撃を阻む防御とは異なり、敵の攻撃に合わせて自らの攻撃を打ち合わせ、その名の通り敵の攻撃を弾き飛ばす事で防御する技術だ。
当然。通常の防御に比べてその何度は格段に高く、失敗すれば逆に自身が大きな隙を晒す事になるか、弾かんとした攻撃を無防備で受ける羽目になるリスクの高い技だ。
だが、その高いリスクが故に、到底受け止める事などできない一撃であっても、被害を最小限に抑えて捌く事ができる。
けれど。ダメージをゼロに抑える事ができない以上、どうあっても損耗は積み重なり、限界は訪れる。そしてそれはきっと、もう間近にまで迫っているのだろう。
「っ…………。フゥ~…………!!」
降り注ぐ一撃と一撃の狭間でテミスは大きく息を吐くと、チラリと視線を背後へと向けた。
そこに鎮座しているのはゲルベットの町。ハクトが誇りも矜持も投げ捨ててまで守らんと望んだ町だ。
きっと今頃、撤退した冒険者たちによって避難が進み、蜂の巣でもつついたかのごとき大混乱が起きているのだろう。
「ハッ……! 勝利条件だけを見れば、圧倒的にこちらが有利。だというのに、それでも尚足りんか……」
血と汗と泥にまみれた長い髪を掻き上げると、テミスは皮肉気な微笑みを浮かべてそう嘯いた。
この身体では、あと数度攻撃を受けるのが限界だろう。
自身が離脱する余裕も鑑みるのなら、受ける事ができて次の一撃で打ち止めだ。
だが、たかだかこれだけの時間を稼いだところで、ゲルベットに住む者達全員の脱出など到底叶いはしない。
「悪いな。ハクト。これ以上食い止めてはやれない」
再び剣を持ち上げる巨大な黒い騎士を眺めながら、テミスは静かな声でハクトに告げると、自らの胸の内で撤退の意志を固めた。
次の一撃を受けたら即離脱する。
痛みと軋みで悲鳴をあげる身体を励ましながら、テミスは気合の籠った眼で巨大な黒い騎士を睨み上げ、次なる一撃に備えて腰を落とした。
「ッ……!! よしよしッ……!! 横薙ぎだと具合が悪かったが、それならばお誂え向きだッ!」
巨大な身体を悠然と動かした黒い騎士が、八双の構えに似た形で剣を構えるのを確認すると、テミスはニンマリと微笑んでひとりごちる。
そして次の瞬間。
大気が引き裂かれる音と共に振り下ろされた一撃を弾き、その勢いすらも利用してテミスは大きく弧を描いて後方へと退いた。
対する黒い騎士は剣を深々と大地に突き立てて片膝を付き、到底追撃に映れるような体勢ではない。
加えてテミスは、後一度この勢いに乗ったまま地面を蹴って退けば、そこはもうあの黒い騎士が振るう馬鹿げた大きさの剣を以てしても届かない場所だ。
「ハハッ……!! さらばだ木偶の坊! 二度と相見えない事を祈っているぞッ!!」
自身の脱出の成功を確信したテミスが、高笑いと共に白銀の髪をたなびかせながら、悔し紛れの捨て台詞を残した時だった。
「はっ……? ッ……!!? がッ……ハァッ……!?」
地面に片膝を付いた黒い騎士が、そのまま倒れ込むかのように前傾すると、まるでテミスを絶対に逃さんと言わんばかりに、猛然と腕を伸ばす。
それまで剣を振り回していただけだった黒い騎士の行動からは、その動きは予想など出来るはずも無く。
大きく跳び退がった所為で空中に居たテミスは為す術もなく、壁に衝突したかのような衝撃と共に、巨大な黒い騎士の手の内へと収められたのだった。




