1679話 矜持に殉ず
――全くもって莫迦な話だ。
まるで天へと挑むかの如く、空へ向けて剣を掲げたまま佇む黒い騎士を前に、テミスは胸の内でそう独りごちる。
こちらの攻撃は届かない。奴に近付けばその瞬間、あのビルのような馬鹿げたサイズの巨大な剣が、馬鹿げた速度で振り下ろされるのだ。万に一つさえ勝ち目がないのは先刻承知の上。
だというのに、戦力となるルードとシズクを退がらせてまで、こうしてたった一人で相対しているのだから。
「ハッ……」
長い白銀の髪を吹き渡る風になびかせながら、テミスはせせら嗤うかの如く口角を吊り上げる。
先人に曰く。馬鹿は死んでも治らないというが、どうやらそれは本当の事だったらしい。
自らの敗北が揺るがない事を知って尚、立ち向かう者は間違い無く愚者と呼ぶべきだろう。
つまるところ。僅かばかり回復したとはいえ、体力も消耗し、自身の状態も万全からは程遠い癖に、あの巨大な黒い騎士へ挑まんとしている私は、紛れもなく愚者であるという訳で。
「だが……まぁ……。仕方ないじゃないか」
ジャリン……。と。
地面に深々と突き立った大剣を引き抜き、肩へ担ぎ上げながら、テミスは胸を張って言葉を続けた。
たとえすべての門を解放したとて、あの巨大な黒い騎士から全ての町の住人が逃げ切る事は不可能だろう。
名前も知らない誰かを救いたいなどという思いは青臭い理想論で、たとえ正しき道を貫き通したとしても、いとも容易く背を刺されるのだと、この身を以て……否、この魂を以て知っている。だからこそ、そういった感情は確かに命と共に前の世界に置いてきた。
それでも。
「偶には、青臭い理想を貫くのも悪くはない」
そう嘯くと、テミスはフラフラと定まらない足取りで歩を進め、一歩、また一歩と巨大な黒い騎士との距離を縮めていく。
どこぞの誰ぞが、いったい何の為に生み出したのかは知らないが、命ある者へ片端から襲い掛かる兵器など、どうせ碌でもない企みに違いない。
ならば、こうして私があの巨大な黒い騎士の前へと立ちはだかる事で、今日この地で喪われるはずであった命が、一つでも多く永らえる事ができるのなら。
それは、名も顔も知らないどこぞの悪党の思惑を、僅かばかりとはいえ挫いてやったと言えるはずだ。
「……アイツが横に居たら、きっと詭弁だと言って笑うのだろうな」
テミスはふと、フリーディアの顔を思い浮かべて零すと、浮かべていた笑みを柔らかなものへと変え、巨大な黒い騎士の後ろに広がる空を仰いだ。
今頃あいつらは、無事にファントへと帰り付いている事だろう。
もしも、この黒い騎士が襲来したのがファントの町だったならば、私はたとえ最後の一兵となろうとも決して退かず、黒い騎士を屠るために最後まで足掻いたはずだ。
その判断が間違いだとは思わないし、アリーシャやマーサさんのクラスあの町を護る為ならば、この命の一つや二つくらい懸けた所で惜しくはない。
だが、ゲルベットの町に私と同じような想いを抱いているであろうにも拘らず、ハクトは眼前の状況を冷静に受け入れ、リスクの伴う希望に飛び付く事なく、苦しいながらも堅実な未来を選んでみせた。
「ったく、心底気に入らん奴め。心底軽蔑するぞ。涙を呑んで犠牲を受け入れるなど、偉ぶりやがって。勘違いも甚だしい。だが、町を想うその心だけは見上げたものだ」
誰に語り聞かせる訳でも無く、テミスはハクトへ向けて語り掛けると、肩に担いだ大剣を持ち上げて、その切っ先を巨大な黒い騎士へと向ける。
すると、テミスの戦意に応ずるかの如く、剣を掲げて天を仰いでいた巨大な黒い騎士はゆっくりと足元のテミスを見下ろすかのような動きを見せた。
「ククッ……その心意気。渇望して尚封じ込めた悪あがき。同じ穴の狢として、この私が代わりに足掻いてやろう。さぁ、来るが良い。私は強情だぞ?」
そんな巨大な黒い騎士に、テミスは不敵な笑みを湛えて朗々と告げると、大剣を肩の高さまで持ち上げて、ゆらりと構えを取ったのだった。




