1678話 戦場での別れ
ゲルベットの放棄。
それが、決して敵い得ぬ敵を前にテミスが下した判断だった。
巨躯を用いた強大な一撃は、たった一振りで町を破壊せしめるだろう。
次の一撃がゲルベットへと放たれれば、前線に立つ冒険者たちは元より、その背後に潜み隠れる町の住民たちに未曽有の被害がもたらされるのは町ギア内。
ならば、敵が動きを止めている今。一刻も早く。一人でも多く町を脱出し、周辺の町へと危機を報せる。
打つ手の無くなった今、それだけがゲルベットに集った者達ができる最善の手だった。
「……それ程なのか。アイツは」
「あぁ。私の速力を以てしても近付く事すらままならん。たった一薙ぎで空が裂け、大地は割れる。アレはそういった類の化け物だ」
「そんな……!! なら……ッ!! 月光斬!! あの斬撃なら、近付かなくても……!!」
「そうかッ……! そいつだッ!!」
「いや……」
低い声で問いかけたルードにテミスが応えると、息を呑んだシズクが必死の形相で声を上げる。
その案に、ルードも天啓とばかりに指を鳴らして表情を輝かせるが、テミスは静かに首を振りながらヨロリと身体を傾がせて、一歩前へと進みつつも立ち上がった。
「もう察しているだろうが、今の私は月光斬を放てない」
「っ……!! なんてこった……!!」
「私に任せて下さい! テミスさん! たとえテミスさんが撃てなくても、私ならッ……!!」
「あぁ……。あれだけの巨大だ。今ならば動きもないし、放つ事さえできれば当たりはするだろうな。だが……シズク。お前の月光斬では威力が足りない」
「ッ……!!」
自らの胸に手を当てて名乗り出るシズクに、テミスは僅かに言い淀んだ後、有無を言わせぬ口調でそう断言する。
元より、テミスがシズクへと教えた月光斬は、フリーディアが模倣して創り上げた紛い物だ。
斬撃そのものを射出する月光斬とは異なり、闘気を以て刃を練り上げ、魔力を以て刀身に纏わせた闘気を射出する。
結果として、斬撃を飛ばすという同じ現象を引き起こしているものの、理外の力を用いているテミス本来の月光斬とは、技の本質が根本から異なるのだ。
「下手に刺激して被害を増やすくらいならば、この隙を脱出に使うッ! ……何を言おうと私の判断は変わらない」
無情にも断じたテミスの言葉に、シズクは反論する事無く俯いて唇を噛み締める。
そんなシズクに、テミスはズキリと僅かに胸に痛みを覚えたが、湧き上がる感情を抑えて淡々と言葉を重ねた。
「……そうかい。考えは、変わらねぇんだな?」
「あぁ」
「後悔はしねぇな?」
「さぁな」
「…………。俺は。生き延びたぞ?」
「ハン……こんな所で死ぬつもりなど。毛頭無い」
「ッ……!!! テミスさん……?」
背を向けたまま語ったテミスと、ルードが沈んだ声で短く言葉を交わすと、僅かに遅れて何かに気付いたかのように俯いていたシズクがピクリと顔を上げる。
しかし、その時には既に遅く、音も無く伸びたルードの腕が、シズクの腹を抱えるようにして捕らえていた。
「ッ……!!!! まさかッ……!! は、離してくださいッ!!! こんなの駄目ですっ!! テミスさんッ!!」
「悪いな。今回ばかりは、何を言っても聞きそうになかったからな。感謝する」
「……後で一発殴らせろよ。こんなふざけた真似……俺だって腸が煮えくり返ってんだ」
「クク……こんないたいけな少女に対して、そんな大きな拳をブチ込むつもりか? この鬼畜男め」
「ケッ……! そういう事は、可愛らしく相応の振る舞いをしてから言えってんだ。つまらねぇ責任の取り方なんぞしやがって……!! 馬鹿野郎が」
自身の意図を察したシズクが叫ぶのをよそに、テミスとルードは何処か通じ合っているかのように語り合う。
そして、ルードは吐き捨てるようにテミスの軽口へと返すと、ゆっくりとその身を翻した。
「シズク……。すまない。だが、私は一度ハクトが告げた撤退の指揮を無視して、強引に戦いを続けた。それが招いた結果がこれならば、最低限の責任は果たさねばならん」
「だったらッ!!! 私も連れていって下さい!! 力及ばずとも絶対にお役に立ちます!! 立てますからッ!!」
「フ……気持ちだけ貰っておく。これ以上お前を私の無茶に付き合わせて、大怪我でもさせようものならヤタロウの奴に恨まれそうだからな」
「私はッ!!! テミスさんの護衛ですッ!!! ヤタロウ様の命でッ!!! 果たさせてくださいッ……!! 役目をッ!! お願いしますッ!! テミスさんッ!!!」
「……そうか。なら、お前には私の宝を預けよう。友から貰い受けたこの白銀雪月花を。しっかりと護ってくれ」
「……ッ!!! そういう事じゃ――ッ!! あ……待って!! 駄目ッ!!!」
シズクはルードに抱えられたまま暴れ、泣き叫ぶが、テミスは穏やかな微笑みを浮かべて諭すようにそう告げると、自らの腰から鞘ごと刀を抜き取って、シズクの腰へと差し入れた。
そして、もはや告げる事は無いと言わんばかりにテミスが背を向けると、ルードは絶叫するシズクをがっちりと抱えたまま、言葉を発する事無く走り出したのだった。




