1665話 猛き意地
馬鹿な男だ。と。
強い輝きを放つハクトの瞳を覗き込みながら、テミスは胸の内でひとりごちる。
これまでさんざん好き勝手な振る舞いをしてきた癖に、事この期に及んで商人の誇りだと?
酷くズレているにも程がある。その誇りとやらを金で踏み躙り、ゲルベットを牛耳ってきたのは他でもないお前だろうが。
それが何を今更……。
「口惜しくはあるが引き時だ。損を切る!! これ以上の戦いは無益だッ!! 損害しか生まないッ!」
続けられたハクトの叫びは、まさに商人を体現しているが如き言葉だった。
ハクト自身、この土壇場で突然、人道や博愛に目覚めたという訳でも無いだろう。
勝利を目指して、少なくない対価を支払って備えていたはずだ。
だが、頼みの綱であった策は潰え、商人であるハクトには、事態は如何に上手く負けるかという段階へと移行したのだろう。
それは確かに賢い者の考え方で、傷を小さく収める事はできるのかもしれない。
しかし、その過程で失ってしまったものは決して埋める事などできず、小さく収めようともその傷が永遠に癒える事は無いのだ。
「ハッ……!! 言ったはずだ。私は損得でこの戦場へ出てきた訳では無いのでな。たかだか五百。退くほどの数ではないッ!!」
その事実を己が身に刻み込んで知っているが故に。
テミスは皮肉気な笑みを浮かべると、ハクトに掴まれた腕を強引に振り払い、半ば投げ捨てるようにして胸倉を掴んでいたハクトを解放した。
事実。テミスにしてみれば五百という敵の数は、戦って勝ち得ない数ではない。
だがそれは、自身が万全な状態であるという前提の上に成り立っているもので。
全力で戦う事ができず、剣の投擲で疲弊している今では、命を棄てて戦った所で、二百を削るのが限界だろう。
「待て! 無茶だッ!! 一度退いて体制を立て直すのだ!! 確かにゲルベットは墜ちるが、次の反撃ならばッ……!!」
「だ……そうだ、ルード。お前達は退いて良いぞ。最早戦う理由もあるまい?」
「へっ……馬鹿言え。お前一人に戦いを押し付けて逃げたとありゃ、俺ァ二度と冒険者を名乗れねぇ。生意気言ってんな。先輩が、付き合ってやるよ」
「なっ……ぁ……!!?」
目を剥いて叫ぶハクトを尻目に、テミスはふらりと頼りない歩調で一歩前に進み出ると、不敵な笑みを浮かべて告げながら、悠然とルードを振り返った。
しかし、ただそれを良しと呑むルードではなく、すぐにへらりとした緊張感のない笑みをで笑いかけながら、テミスの肩に手を置いて並び立つ。
けれど、ハクトにはそんな二人の考えが欠片たりとも理解する事ができず、ただ唖然とした表情を浮かべて、水からあげられた魚の如くパクパクと声なき叫びを上げ続ける事しかできなかった。
「当然。私もお供しますよ。テミスさん」
「微力ですが、援護はお任せください」
テミスの背を追って進み出たルードに一拍遅れて、胸を張ったシズクとセレナが後に続いて歩を進める。
その歩みには、眼前に迫り来る絶望に対する迷いも怖れも無く、泰然とした頼もしさがあった。
「っ……! シズク……」
「もしも駄目だと言ったら私、この剣を背負ったまま逃げ出しますからね? 今の私はテミスさんの護衛なのです。無茶をするのなら一緒に……ですよ?」
「あ、そういう流れですか? なら私は……どうしましょうか? ルードさん。もしも置いて行かれてしまったら……吟遊詩人にでも転職して、昔々のいさおしを語り回るのも良いかもしれませんね?」
自分達に追従せんとするシズク達に、テミスとルードは僅かに視線を交えると、二人を退かせる為の方便を考えながら口を開きかけた。
だが、それを遮ったシズクが悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言葉を続けると、シズクに続いたセレナは唇に指をあてて考え込む素振りと共に、意味深な笑みを湛えてルードへと告げる。
「あ~……わかったわかった。ただ、無理だけはすんなよ? ったく……強かだねぇ……ホント……参るぜ」
「…………。クス……わかったよ。流石にその剣を持って行かれてしまったら、私もいよいよ打つ手が無くなってしまうからな。シズク、手を貸してくれ」
「はいッ!」
そんなシズク達に、テミスとルードは再び視線を合わせた後、苦笑いを零しながら互いに肩を竦め合う。
そして、テミス達は溜息まじりにそれぞれへと告げると、意志の籠った二つの返事が凛々しく返されたのだった。




