1664話 命の対価
――腕が鉛のように重たい。喉は灼けるように熱く、胸の奥からは赤錆びたような血の味が込み上げてくる。
望外の苦しみの只中で歯を食いしばり、後悔に苛まれながらも、テミスは剣を投げる手を止める事は無かった。
これ以外に有効な策が思いつかなかったとはいえ、些か無茶が過ぎたと言わざるを得ない。
ただ二千個の球を放り投げるだけでも、どれ程の苦行であるかは想像に難くはない。
それに加えて、投擲する剣の重さに最低限必要な威力、そして多少とはいえ動いている的へ当てる為の精密さ。
それらの負担はテミスの想像を遥かに超えており、弱音を呑み込んだところで、頬を伝う大量の汗が苦しさを周囲の者達へと物語っていた。
「ッ……次ッ!! ……次ッ!!! 次ィッ!!!」
新たな剣を受け取っては放ち、投げ放っては受け取って。
最初は黙々と続けていたテミスであったが、いつの間にか乱れた呼吸と共に閉ざしていた口は綻び、今や荒々しい声がハクトとエルリアを急かしていた。
だが、謂れなき怒声を浴びる二人にもテミスの苦しみは十二分に伝わっており、二人は今はただ剣を手渡す事しかできない己の無力さに、悔し気に唇を噛み締めた。
「ゼェッ……! ハッ……! 次ッ……!!!」
「ッ……!!!」
目に見えて疲弊して尚、剣を放ち続けるテミスの姿に、怒りにも似た激情を覚えているのは、なにもハクト達だけではなかった。
迎撃に努めるテミス達のすぐ後方、剣を積んできた荷車の傍らでは、渋い表情を浮かべたルードたちが水薬を傾けており、その更に後方では、魔獣の討伐を終えた冒険者たちが、一様に拳を握り締めてテミスの姿を見守っている。
最早、荷車に残った剣は数えるほどしか無く、剣の投擲だけでは黒い騎士を殲滅できない事は誰の目から見ても明らかだった。
けれど。それでも尚、冒険者たちは誰一人として逃げ出す事は無く、皆それぞれに己の携えた武器を固く握り締めていた。
「つ……次ッ……!!!」
そして。息も絶え絶えとなったテミスが、もはや気力のみで次弾を要求した時だった。
「もう……ありません……ッ!!」
「な……に……ッ!?」
差し出されているはずの剣の柄を掴むべく伸ばしたテミスの手が空を切り、細く震えるエルリアの声が悲痛に響く。
剣が尽きた。だというのに、未だに黒い騎士の軍勢はテミス達の前に立ちはだかっており、規則正しく揃った地響きのような足音が、絶望の音を奏で続けていた。
「ハッ……ハッ……ハァッ……!!!」
「もう……十分……だ……。感謝する……」
「なん……だと……ッ!!? 何を今更ッ――!!!」
「――総員ッ!!! 退却ッ!!! 冒険者各位はゲルベットの住人の避難誘導に当たってくれ」
その最中。
突然ハクトは静かな声で呻くように言葉を紡ぐと、テミスが止める間も無く命令を発してしまう。
「ふざけるなッッ!!!」
直後。
雷鳴のようなテミスの怒号が黒い騎士たちの足音を切り裂いて響き渡り、同時に振るわれた剛腕がハクトの胸倉を掴み上げ、背後の荷車へとその背を叩き付ける。
「アレを見ろ!! お前達の目には大軍勢に映るかもしれんが、確実に数は減っているッ!! あと少し……少しでッ……!!」
「……知っているとも。奴等は残すところあと五百余り。先程帰還した斥候の報告だ」
「だったら何故ッ……!! 倒せない数ではないだろうッ!!」
「ッ……!!! で……しょうな……。貴方がたの、『命』を使えば」
己が身を襲う疲弊すら忘れて怒りに目を剥くテミスの怒声に、ハクトは固く食いしばった歯の隙間から、僅かに震える声で言葉を返した。
その周囲では、突如として下された退却命令と、相反するテミスの怒声に浮足立った冒険者たちが、表情を不安気なものへと変えて佇んでいる。
「――私はその対価に、何を支払えば良いのです?」
「っ……!?」
「このまま反攻に転ずれば……。えぇ、確かに町は護れるかもしれません。ですが、少なくない数の冒険者たちが犠牲になるッ!! 私は商人です!! 何を売り渡そうとも、その誇りだけは忘れた事は無いッ!! 今の双月商会は、死を以て町を護れなどと命じることの出来る対価を持ち得てはいないッ!!!」
バシリ。と。
血を吐くような叫びと共に、ハクトは渾身の力で自らの胸倉を掴み上げるテミスの手を掴むと、煌々と意志の灯った瞳でテミスを睨み付けたのだった。




