1646話 善の本質
ニコルの口から語られたのは、テミスですら反論の余地が無い正論だった。
魔族と人間の戦いよりも長く続くアルブヘイムの戦いが、今日明日に終わるほど簡単なものであるはずも無く、ニコルの言を信ずるのならば、このゲルベットという地は度々黒騎士とやらに襲われていたことになる。
つまるところ、今この地に根付いている繫栄は、双月商会が短期間で成長し作り上げたが故のもので。
その繁栄と安寧は、時折襲い来る黒騎士と魔獣暴走の合間に揺蕩っていただけの幻想に過ぎない。
ならば、この地に住まう者達が自らの生活を守るために、戦力足り得る者を留め置きたいと願うのは自然な事だろう。
所詮はヒトなど、一部の大馬鹿を除けば最優先されるのは自らの利。恩を仇で返すなんてことは平然とやってのけるに違いない。
「……ルードにはワタシからもよく言ってやるさ。あんな男でも、ワタシにとっては貴重な知己だからね。こんな所で失うには少しばかり惜しい男だ」
コトリ。と。
長い沈黙を経た後、ニコルは手にしていたカップを机の上に置くと、穏やかな声でそう話を締めくくった。
そこに在ったのは、何処までも平坦な諦観と達観で。
恐らくそれは、途方もなく長い時間をこの世界で生きているであろう彼女が、数多の経験をもとに導きだした答えなのだろう。
……だが。
「…………。ククッ……ハハハハッ……!! なるほどなるほど。道理で……」
「……? なんだい? 反論があるのならば勿論聞くけれど」
「いいや。反論など無いさ。もしも私が万全に力を振るう事ができ、今回の魔獣暴走を収めたとしたら、まず間違いなく先程お前が言ったような事態になるのだろうな」
テミスは身体を丸めながら喉を鳴らして笑うと、表情を変える事無く平然と首をかしげるニコルに言葉を返した。
そうだ。反論の余地など微塵もない。
恐らくは今、ニコルが語った事は、かつて彼女自身が行動した結果、その身で経験した事実なのだろう。
だからこそ、ニコルは敢えて何もしない事を選び続け、鄙びた屋敷に居を構えるしがない薬師と身を窶したのだ。
一見すれば俗世に愛想を尽かした仙人か何かのようにも思える。けれど、テミスが嗅ぎ取ったのは全く別の匂い……否。残り香とも言うべきニコルの本質だった。
「なぁ、ニコル。お前は善人だなぁ……」
「はっ……? 急に何を言い出すんだ? 話が滅茶苦茶だ」
「いいや? 通じているとも。ファントにも居るんだよ。何かにつけて救うだの助けるだのと喧しいお人好しがな。そいつがまた、自分と敵対した連中まで手を伸ばそうとする弩級の馬鹿なのだから手が付けられん」
「……それは、ご愁傷さまだね。キミの苦労は察するに余りあるよ」
「だろうな。あの大馬鹿ほどでは無いにしろ、ニコル。お前もアイツと同類であることに変わりはないのだからな」
「っ……! ホゥ……? 面白い意見だね。ワタシはキミにこの町の住人を見棄てろと言っているんだよ? それの何処が、善人なんだい? お人好しだというキミの友達なら、見棄てるなんてことはしないんじゃないかな?」
クスクスと笑い続けながら告げるテミスに、ニコルはピクリと僅かに眉を跳ねさせるも、余裕に満ちた笑みを崩す事無く問いを返した。
確かに、フリーディアの奴ならば問答をする暇もなく、この地に住まう十人を一人でも多く救う為に、魔獣暴走や黒騎士に立ち向かうのだろう。
それはつまり、今のニコルとはまるで正反対の行動。
フリーディアを善人と置くならば、対極に位置するはずのニコルは、悪人とまではいわずとも善人の枠から外れる事は間違いない。
「同じさ。お前もあのお人好しも、住人を守るか否かという選択をしているに過ぎない。戦う力の無い者を救う、助ける、手を差し伸べる。結果としてどちらを選んだとて、それらが選択肢に入ったという事実に変わりはない」
けれどテミスは、皮肉気に唇を歪めながら朗々と説くと、手に携えたティーカップの中の紅茶を一気に飲み干した。
そうだ。『救わない』という道を選んだニコルでも、そこへ至る理由や障害が無ければ、住人たちを救うべくその力を振るうのだろう。
結局の所、その辺りの些末な違いでしかないのだ。
タガの外れたお人好しであるフリーディアも、達観と諦観で動かないニコルも、前提としてこのまま放っておけば蹂躙されるであろう者達は救うべきである……という視点を元に動いている。
「おかしなことを言うね。ワタシには余程キミの方が善人に見えるけれど? 満足に戦えない身でありながらも、戦いへと赴かんと足掻いているようだ」
「ハハハハハハッ……!! 私が? 善人だと? クククククッ……!! そうか。そう見えるか」
「……違うのかい?」
「あぁ。違うとも。この町の住人など知った事か。私は悪逆を……理不尽を許さないだけだ。他人を救う気など毛頭無い」
ニコルの問いかけに、テミスはニンマリと蝋燭が蕩け捩じれたような歪んだ笑みを浮かべると、クスクスと嗤い声を漏らしながら答えを返したのだった。




