1645話 虚ろなる者
作業場の隣に設えられているニコルの私室へと招かれたテミスの眼前には、有無を言わさず用意された紅茶が温かな湯気をあげており、その向こう側では穏やかな表情をしたニコルが満足気にティーカップに口をつけていた。
テミスの心情としては、ニコルの気紛れな話に付き合っているような場合では無かったのだが、先日の賭けで助手という立場に収まっている上に、自分の命運と依頼の成否を握られている以上、否やなどと言えるはずも無かった。
「フフ……ゆっくり紅茶を飲んでいるような気分でもないかい?」
「…………。正直に言えば……そうだ。自らの滞在する町に危機が迫っているのだ。少なくともこうして落ち着くのは、一つでも何かしら対策を立ててからだと思うのだが……」
意味深な笑みと共に投げかけられたニコルの問いに、テミスは若干の逡巡を見せた後、偽ることなく自らの内心を言葉にする。
それはともすれば、茶を楽しんでいるニコルを言外に非難しているようにも聞こえかねない言葉であったが、ニコルは気に留めるそぶりを見せる事は無く、穏やかな笑みを浮かべ続けていた。
「対策ならあるさ。この屋敷は、ドラゴンが襲ってきたって傷一つ付く事は無い。外で何が起ころうと、キミはこの屋敷の中でのんびりと昼寝でもしていればいい」
「っ……!!! だが……!!」
「おっと……そうだね。キミ達は客人だ。いつまでもこの屋敷に引き籠っている訳にも行くまい。だが安心したまえ。万全のキミならば、魔獣も黒騎士も簡単に斬り伏せて帰れるさ」
「バキース……?」
「あぁ。アルブヘイムの者達が戦っている黒い騎士の事さ。ワタシが名付けた。古い言葉で空っぽって意味なんだけどね」
飄々と告げられるニコルの言葉にあった聞き慣れない言葉に、テミスが首を傾げて復唱すると、ニコルは饒舌に意味まで解説し始める。
「キミはまだ見たことが無いだろうけれど、連中の中身は空っぽなんだ。格好をつけるのなら、空の騎士だとか、虚ろの騎士って所だろうね。でも、あんなモノにそんな大層な名をつけてやるのも癪だったからさ。ただの空っぽって名を付けてやったんだ」
「…………」
「魔力で変質した鉱物で模った鎧に、ただ魔力を込めただけの乱造品。奴等には明確な目的なんて無くて、ただ無軌道に暴れ回っているだけ。真似事にしても質が悪いし、全くもって美しくない。中身だけでなく目的すら何もないときたもんだ。見苦しいにも程があるよ」
「……」
相槌すら打つ事なく沈黙を貫くテミスに、ニコルは構わず黒騎士についてまくし立てると、一息を吐いて再び紅茶を口に含む。
どうやらニコルは、この地に長く住んでいるだけあって、今回の魔獣暴走の原因である連中の事をよく知っているらしい。
だが、彼女にしては珍しく否定に否定を重ねて拒絶する様は、テミスの目にはただ知っているだけという範疇を超えているように見えた。
けれど、そこに言及したところで意味は無いだろうし、最悪それでニコルの機嫌を損ねてしまっては元も子もない。
そう判断したテミスは、ただ静かにニコルの言葉に耳を傾けながら供された紅茶を傾けていたのだが……。
「……賢いね。上手いコト興味を引けたと思ったんだけどなぁ……」
しばらく喋り続けた後、ニコルは穏やかな笑みを不敵な笑みをへ変えて肩を竦めると、眼光鋭くテミスへと視線を送った。
つまりは、この妙に目新しい情報ばかりな話の全てがニコルの撒いた餌で、テミスが食いつくのを待っていたという訳だ。
「最近、むやみやたらに深入りするべきでは無いと学んだんだ。何度も痛い目に遭ったからな」
「フフ……けれど、不思議だね。キミはまだ落ち着いていないように見える。この屋敷は安全だと知った事で、キミを苛む悩みは解決したはずだ。なのに、何故だろうね?」
「ッ……!!」
まるでテミスの内心を全て見透かしているとでも言うかの如く、ニコルは唇を不敵に歪めたまま、事も無げにそう言葉を続けると、テミスへ向けた目を細めてみせた。
確かに、ニコルの言葉を信じるのであれば、この屋敷に居ればテミス達は安全なのだろう。
ともすれば、戦いに赴く事さえしなくても良いのかもしれない。
けれど。それは自らだけ安全域に逃げ延び、まず間違いなく抗う為に戦いへと赴くであろうルードや、この町の者達を見棄てるという事で。
誰も彼をも救いたがるフリーディアに辟易としているテミスといえど、迫る厄災を前に傍観を決め込むには忌避感があった。
「止したまえ。キミにとってこの町は所詮止まり木に過ぎない。ましてやキミは今、魂が剥がれかかっているんだ。命を張るような価値は無い。むしろ損しかないだろうね」
「……自分に得が無いから見棄てろと?」
「ヒトってのは身勝手なものさ。あぁ、双月商会の連中に限らずね。この土地はこれからも、度々こういった災難に見舞われるだろう。だからキミが力を振るえば、この町の者達は間違い無くキミを欲しがる。キミの事情なんかお構いなしにね」
「ッ……!!」
「英雄だ。勇者だ。なんて褒め称えながら、キミたちをこの地に留めようとするのさ。それでも駄目なら次は泣き落としかな? 一度は救ってくれたじゃないか。なのに途中で投げ出して見棄てるのか……ってね。キミを欲しがっている双月商会に加担する奴も出てくるかもしれない」
冷たい口調で語るニコルに、テミスは胸の内に覚えた忌避感に従って抗弁を試みる。
だが、返って来たのはまるで彼女自身が実際に経験でもしたかのように、生々しく具体的な未来予測で。
淡々と語られるその未来がいとも容易く想像できてしまうが故に、胸の内に灯ったちっぽけな義憤など一瞬で潰え、テミスはまるで親に叱られる子供のように、言葉すら返す事ができず黙り込む事しかできないのだった。




