1644話 副わぬ思い
ニコル邸の地下室。
そこはニコルの作業部屋であり、同時に研究室も兼ねている。
この場所が彼女にとってどれほど大切な場所であるのかは言うまでもなく、まさにこの屋敷の心臓に等しい場所であると言っても過言ではないだろう。
そんなある種の聖域である場所に向かう階段を、テミスはコツコツと足音を立てながら下ると、もうもうと湯気の立ち込める作業部屋へと足を踏み入れた。
「少し……待っていてくれるかい? 今は手が離せなくてね」
「っ……! あぁ……」
ここに居るはずのニコルの姿を探すべく、テミスが視界の効かない周囲へと視線を巡らせた瞬間。
テミスの目を以てしても見通す事ができないほど濃い湯気の向こう側から、ニコルの静かな声が響いた。
恐らくは、部屋の入り口に来客……否。侵入を報せる仕掛けが施されているのだろう。
だが、確かに仕掛けを起動させたであろうテミス自身にその自覚は無く、ニコルの呼びかけによってようやく事実を理解したテミスの背に戦慄が走る。
もしも、施されていたものが侵入を報せるだけという優しさに満ちたものではなく、もっと攻撃的な……侵入者を排除・滅殺する類の罠であったなら、今頃テミスは自身の身に何が起こったのかを気付く事すら無く死んでいたのは間違いないだろう。
「すまない。待たせたね。今作っている薬は湿度と温かさが大事だから、作っている間は換気ができないんだよ」
「いや……構わない。報せも無く押しかけたのは私の方だからな」
「ふふ。それで、何かワタシに用があるのだろう? これからしばらくの間は煮込むだけだから時間を取れるよ?」
「……。聞きたい事が……ある……」
テミスが戦慄に立ち竦んでいる間に、ニコルは作業を終えたらしく、のんびりとした声と共に濃い湯気の中から姿を現した。
しかし、その表情はまるでテミスの内心を見抜いているかの如く楽し気に歪んでいた。
だが、テミスはそんな些事に気を留める事は無く、ニコルが穏やかな声で続けた問いに短い沈黙を返した後、酷く迷うかのように口ごもりながら静かに口を開いた。
「私を治す薬を作るには……どれくらいかかるんだ?」
「クス……」
ともすれば、急かしているようにも聞こえるテミスの問いに、ニコルは僅かに歪めていた口角を吊り上げて笑みだけを返してみせる。
「ッ……! 治療を受ける身でこのような事を問うのは烏滸がましい事など承知している……! だが、恥を忍んで頼む。教えてはくれないだろうか?」
「んふふっ。そう畏まらなくても構わないよ。自分の身体に関わる事だ。知りたいのは当然だとも。ふぅむ……そうだね……。材料の調達やギル坊の薬との兼ね合い次第にもなるけれど……キミが知りたいのはそういう話ではないのだろう?」
「…………。っ……! あぁ……。なるべく早く……最速で……最優先で作った場合は……」
「一月だ。材料を調達しなければならない以上、どう足掻いてもこれくらいはかかる」
「…………。そうか……」
何故か面白いものでも見るかのような眼差しでテミスを眺めながら、ニコルは淀む事無く答えを返すと、テミスの表情が胸の内に広がった絶望を映したような苦渋に満ちたものへと変わった。
一月という時間は、逼迫した現状を考えるのならば悠長にすぎる時間だ。
ルードから得た情報では、まだアルブヘイムの戦況は芳しくないというだけで、戦線が抜かれたという訳では無い。
ともすれば、悪化した戦況を持ち直し、一月と言わず数年でも持ち堪える可能性だってある。
だからこそ、手持ちの情報が不足している以上、焦った所で意味が無いのは確かなのだが、多数の脅威を前に自力の備えが無いというのは、想像以上に落ち着かないものだった。
「ぶしつけな質問に答えてくれて礼を言う。邪魔をしてしまってすまなかった」
テミスはニコルにそう告げると、軽く頭を下げて身を翻し、地下室を後にするべく一歩を踏み出した。
薬の用意に時間がかかる以上、今ある手札でいかに備えるかを考えるしかない。
胸の内に広がる暗雲の如き思いを押し込めながら、テミスは無理矢理に意識を切り替える。
ここで泣き喚いて怒鳴り、駄々をこねて薬が早く出来上がるのならば、テミスは幾らでも恥を晒しただろう。
だが、そんな事をした所で何一つ意味が無い事を、誰よりもよく知っているが故に、テミスは苦々しい思いを覚えながらも感情を飲み下したのだ。
「まぁ待ちたまえ。煮込んでいる間暇なんだ。少しワタシの話に付き合っておくれよ」
そんなテミスの背を、ニコルは微笑みを浮かべながら静かに呼び止めたのだった。




