1624話 余地なき交渉
――油断した。と。
ルードと相対したテミスの脳裏に、けたたましい警鐘が鳴り響く。
こうして相対している今も、ルードは完全に気配を消していて。ひとたび目を離してしまえば容易に姿を見失うと、テミスの経験が声高に叫んでいた。
「おっと。待て待て。戦う気はねぇ。言っただろ? 後で尋ねるってさ。俺は敵じゃねぇよ」
「だが、味方でも無いのだろう? 味方ならば、気配を完全に断って忍び寄るなんていう真似はしない筈だ」
「でも……こうでもしないとお前さん達、話をするヒマもなく館の中に引き籠っちまうだろ? だから……そうカリカリすんなよ。せっかく可愛いカッコしてんだからさ」
「黙れ。不愉快だ」
「っ……。おぉ……怖い怖い。ま……そのまま構えてて構わねぇからよ。もちっと近付いても良いか? 話しづらくて仕方ねぇ」
しかし、そんなテミスの内心をも見透かしているかの如く、ルードはへらへらと締まりのない笑みを浮かべて話を続けると、小さく両手を挙げて小首を傾げ、テミスへと問いかける。
けれどこの問いには、ほとんど言葉以上の意図は含まれていなかった。
ルードの実力を鑑みれば、テミス達は既に間合いの内に収めているし、その気になれば一瞬で腰の太刀を抜き放ち、攻撃を仕掛ける事もできるだろう。
つまり、今更近付こうとも離れようともその些少な距離に意味など無い。
それを正しく知っているからこそ、テミスはルードへと小さく頷きを返した。
「ありがとよ。はぁ~……ったく、それでも武器は下ろさないか。俺等の仲だろ? もうちっとくらい信用してくれないモンかね」
「フン……私達を信用していない奴が、よくものうのうと宣えるものだ」
「信用してるぜ? お前さんなら、容赦なく斬り付けて来るだろうってな。逃げる準備くらいは許してくれよ」
「っ……!」
「……。それで? 何の用だ? まさか、こんな世間話をしに来た訳ではあるまい?」
ルードがテミス達の元へと歩み寄ると、テミスの傍らで刀を構えていたシズクが音も無く動き、ルードを挟み込む位置へと動く。
同時に、静かな声でルードへの問いを口にしたテミスと目配せを交わし、言葉無き指示を確認した。
テミスから発せられた指示は警戒待機。
ルードが攻撃の意志を見せれば即座に応撃し、テミスが仕掛けた際には合わせて斬りかかる。
細心の注意を払わねばならぬが故に、シズクは神経を研ぎ澄ませると、眼前で隙無く向かい合うルードとテミスの一挙手一投足に意識を集中させた。
「まぁな。俺のお題目は交渉だが……まぁ結果はわかりきっている。お前さんは今すぐにこの町から出て行くか、この館の主を裏切って双月商会に付けと言った所で聞くような奴じゃないからな」
「当り前だ。どちらに非があるかなど子供でもわかる話だろう。むしろ私としては、お前が未だにそちら側に付いている理由がわからんのだが?」
「俺は平和主義者だからな。コトが大きくなる前に収めようと思ったんだが……その前にお前さんがこの町に来ちまった。お陰で俺の計画はご破算だ」
「文句を受け付ける義務は無い。計画が頓挫したならばさっさと諦めて退け。こちらとしても、お前とやり合うのは面倒だ」
「かぁ~……相っ変わらずだな。ったく勘弁してくれ。双月商会には冒険者連中だって居るんだ。お前さん、トコトンまでやり切っちまうつもりだろ? 流石に皆殺しは寝覚めが悪すぎる」
「人聞きが悪いぞ。私とて、最初から皆殺しにするつもりなど無いわ!」
「でも……向かって来る奴に容赦はしないだろう?」
「当然だ。殺す気で向かって来るのだ。殺されて文句を垂れるのは滑稽だぞ」
「ハァ……。だろうなぁ……。クソ……頭が痛くなってきたぜ……ったく……」
慎重に言葉を重ねるテミスに対して、ルードは大仰に身振りを交えながら話を進めると、パシリと額に手を当てて深々と溜息を吐く。
一度戦いが始まってしまえば、テミスが止まる事は無いだろう。何より止まる理由が無いし、情けをかける利点も無い。
だが一方で、ハクトたち双月商会も、ここまで状況が煮詰まってしまえば引き下がるはずも無く、間に挟まれたルードからしてみれば両者の衝突を止める術は最早残っていないようにすら思えた。
「……わかった。ならせめて、そっちから仕掛けるのは控えてくれ。できれば外出も……と言いてぇところだが、そこまでは言えねぇ事も承知してる。だから、外に出る時は極力人目を忍んで、監視の目に付かねえようにして欲しい」
「元より……こちらから事を起こすつもりは無い。今のところな。だが、時間を稼いでどうする気だ? お前の口ぶりから察するに、連中も退く気は無いのだろう?」
「精一杯足掻くんだよ。戦力が減れば、もしかしたら連中も諦めるかもしれねぇ。たとえあきらめなくても、冒険者たちの被害を減らす事はできらぁ」
「フン……甘い奴め……。――っ!!」
「ッ……!! テミスさん!」
くしゃりと表情を歪めたルードが、頭を掻きながら肩を竦めてみせた時だった。
その提案は、テミスとしても丁度良い落としどころで、結果がどう転ぶにしても真っ向から叩き合うよりはマシかに思えたのだが……。
突如。言葉を交わしていたルードの背後に人影が現れ、刀を握るテミスの手に力が籠ると同時にシズクが鋭い声を上げる。
「遠くから様子を窺っておりましたが、どうやら交渉は決裂した様子……。契約通り、引き籠っている薬師は後回し。ひとまずは、手足から削いでいくとしましょう。さ、ルード殿。仕事ですよ」
そんなテミス達が視線を向けた先には、既に一対の短剣を抜き放って構えたクロウが静謐な殺気を滾らせていたのだった。




