1622話 兎の企み
「邪魔するぜ」
飄々とした声が突如、広い執務室の中に響き、艶やかに磨き上げられたドアが音も無く開く。
不意の来訪者は、最高級の白磁石と黒磁石を唐松模様に組み合わせて作られた床をコツリコツリと足音を立てて歩むと、部屋の中ほどで立ち止まって不敵な笑みを浮かべた。
その視線の先。双月商会の執務室の最奥には、巨大な机を前に革張りの椅子に腰掛けたハクトが、書類仕事に精を出している。
「……来客の連絡は受けていない筈ですが?」
「だろうな。俺みたいな小汚い冒険者など、崇高な商人様であらせられるお前さんに御目通り敵う訳なんてないんだとさ」
「チッ……!! 愚かな。人を見る目の無い無能め。申し訳ないルード殿。ウチの者が失礼を働いたようで。厳罰を科す事をお約束しますので、これで一つ手打ちにして頂きたく」
手にした書類から目を上げぬままにハクトが口を開くと、皮肉気な笑みを浮かべたルードが肩を竦めて言葉を返す。
瞬間。
ハクトはピクリと目尻を吊り上げて吐き捨ててから、書類を机の上に置いてルードへと小さく頭を下げた。
「要らねぇよそんなモン。ンな事より、次からは直接この部屋を訪ねさせてくれ。今回の事でここへの道筋はわかったからな」
「ご厚情、深く感謝します。ですが、罪には罰が付き物です故。無論。ルード殿のご温情は加味させていただきますが……」
「へいへい。言葉の面は何処ぞの誰かとよく似てるが、お前さんが言うと全く意味が違って聞こえるから不思議だなぁ」
「フフ……一体どちら様の事を仰っているのやら……。私と同じ考えをお持ちの方でしたら、良い縁が紡げそうです。是非ご紹介に与りたく思いますよ」
「止しときな。どう考えてもウマが合うとは思えねぇ。お前さんは関わり合いにならねぇのが一番……だったんだがな」
不敵な笑みを浮かべたルードと、笑顔の仮面を被ったハクトは互いに視線を絡め合わせたまま、妙な緊張感を孕んだ会話を続ける。
大商会の主たるハクトを前にしても、ルードは思うがままに後頭部を掻いたりと、一見して粗雑な態度を取ってはいるものの、その姿勢には一片たりとも隙は無かった。
一方でハクトも、ルードがその気になれば己の命など一瞬のうちに刈り取られるであろうことを知りながらも、慇懃無礼な態度を崩そうとはしなかった。
「それは残念です。そして、この部屋を直接ご来訪されるのはどうかご遠慮下さい。なにせ仕事柄、外部の方にはお見せ出来ない書類を扱う事が多いので……。ご理解いただけますと幸いです。ハイ」
「…………。例えば、俺とテミスをぶつけるように仕向ける計画書……とかか?」
「…………」
朗々と言葉を紡ぐハクトに、鋭い視線を向けたルードが低い声で問いかけると、途端に広々とした部屋の中に重苦しい緊張感が張り詰める。
しかし、静かに凄んでみせた所で、ハクトの顔に浮かんだ笑顔が絶える事は無く、ルードは僅かに眉を顰めた。
「……嫌ですねぇ。まさか、私がそんな事をする訳が無いじゃないですか」
「しらばっくれんな。この俺を相手に嘘を吐き通せるなんて思ってねぇだろうな?」
「嘘などではないですとも。あれは不幸な行き違い……不運な事故です。私どもとしても、彼女の動向は読み切れずにいたものでして」
「ハン……どうだか。忘れんなよ? 俺は協力者なんかじゃねぇ。お前の無茶で無謀な企みを止めに来たんだ。平和的にな」
「勿論。しかと覚えていますとも。ですから契約に従い、彼女の近親者には手を出していないでしょう?」
「クク……偉そうに……。お前らだけが滅ぶってんなら俺ぁ喜んで眺めているんだけどな」
「彼女の怒りを買えば、町……いえ、この辺り一帯まるごと消え失せる羽目になる……でしたっけ? 馬鹿馬鹿しい。そのような世迷言を信じるとでも? そのような真似、かの魔王ギルティアにすら不可能です。それを優秀とはいえ薬師がどう成すと? あなたが我々の元へ下るという破格の条件が無ければ、笑い飛ばしていた所ですよ」
互いに一歩たりとも譲らぬ腹の内の探り合い。
――尤も、そう認識しているのはルードに真なる狙いがあると睨んでいるハクトだけだったが。
何一つ嘘を述べず、事実のみを述べているルードは、内心で呆れ返りながら言葉を続けた。
「それで? 用事ってのは何でぃ? わざわざこんなお喋りをする為だけに俺を呼び出した訳じゃあ無いんだろ?」
「えぇ……。仕事の依頼です。先日あなたと刃を交えた元・魔王軍第十三軍団長のテミスですが、残念ながら我々と敵対する道を選んだと報告がありました」
「ッ……!」
「こちらでも手は打ちますが……手段は問いません。この際です、生死も不問とします。我々の大きな障害となり得るテミスとお供のシズクを排除していただきたい。あぁ……ルード殿はお知り合いという事ですから? 勿論、仲間に引き入れていただいても構いません」
話の流れを断ち切って切り替えたルードの問いに、ハクトはパシリと両手を打ち鳴らして応ずると、ニッコリと深い微笑みを浮かべて答えを返す。
だが、それはルードの想定していた状況の中で、最も可能性が高く、かつ最悪に等しい答えで。
「バカ野郎……折角の俺の忠告を無視しやがって……。後悔するぜ……お前さん、竜の尾を踏んづけちまったようなモンだ……」
ルードはへらりと浮かべていた笑顔を引き攣らせて言い残すと、クルリと身を翻してハクトの執務室を後にしたのだった。




