1617話 隠者は語る
カチャカチャという静かな音と共に紅茶の芳醇な香りが漂い、沈黙が部屋の中を支配した。
しかし、その沈黙は決して重たく暗いものではなく、むしろ優しく包み込むような温かな静けさで。
テミスは声も無く差し出された紅茶のカップに、ニコルへと目礼を返すと、静けさを噛みしめるように温かな紅茶を口へ運んだ。
「…………」
温かい。
きっとこの茶葉も、かなり良い品なのだろう。口に含んだ途端、豊かな香りが口腔の中を満たし、鼻を通り抜けていく。
僅かながらも時間が経ち、幾ばくかは自分が置かれている状態を冷静に受け止められるようになったとは思う。
紅茶の香りを楽しみながら、テミスはそう胸の内で呟きを漏らした。
要するに、腕の立つ奴と戦わなければ良いだけの話なのだろう。
私の用いる魔法は、ほとんどがあの女神擬きから授けられた能力によるものだ。月光斬も然り。フリーディアの奴が再現してみせた、闘気と魔力を用いた打ち方ならば自力によるものともいえるが、いかんせんあの打ち方でも少なくない魔力と闘気を消耗する。
つまるところ、今の私にできるのは付け焼き刃の剣術と実戦ではとても使えたものではない力量の魔法のみ。
それでも、そこいらの雑魚を片付ける程度ならばできようが、ルードと相対する事はおろか、あのクロウとかいう刺客を相手取るのも厳しいだろう。
「フム……シズク。すまないが、戦いにおいてはお前を頼る事になりそうだ」
「はい! お任せください! 私もちゃんと稽古を積んで強くなっているって事、お見せしますね!!」
「クス……期待するとしよう」
「フフ……。あぁ……良いね。とても懐かしい気分だ。まるで……昔のギル坊たちを見ているようだ」
テミスは自らの内で現状を整理すると、再び紅茶を一口啜ってから、傍らで同じように紅茶に口を付けているシズクへ水を向けた。
瞬間。シズクは慌てたようにカチャリと音を立てて茶器を置くと、凛々しく握り拳を作って力強く答えてみせる。
そんな二人を眺めたニコルは、とてもうまそうに自らの入れた紅茶を傾けながら、穏やかな表情を浮かべて目を細めた。
その様子は、在りし日に思いを馳せる老婆を彷彿とさせて。
テミスとシズクは目を瞬かせながら目を合わせた後、揃ってニコルへと視線を向けた。
「あ、あの……。ずっと気になっていたんですけれど……。先程から、ニコルさんが『ギル坊』って呼ばれている方って……もしかして……」
「ん……あぁ……。シズクちゃんの想像通りだと思うよ。ギルティア・ブラド・レクトール。今は魔王なんて名乗って、ヴァルミンツヘイムを仕切っている小僧の事さ」
「ッ……!!! や……やっぱり……!! 薄々は感付いていましたけれど……。あの魔王様をそんな風に呼ぶって……事は……」
「…………。ニコル。お前は何者なんだ? 今更、ただの薬師や錬金術師などという戯れ言は要らん。少なからず時間を共にするんだ。それくらいは明かしてくれても構うまい?」
「そうだね……」
視線を向けただけで口を閉ざしたテミスに代わってシズクが口火を切ると、ニコルは事も無げにその問いに頷きを返してみせる。
だがその事実は、シズクを絶句させるには十分過ぎるほどで。
テミスは、質問も半ばで言葉を失い、硬直したシズクの問いを引き継ぐ形で口を開くと、紅の瞳に穏やかな光を宿してニコルへと向けた。
最早、ニコルがただ者でない事など理解している。
無論。話せない事や話したくない事はあるのだろう。だがそれでも、一時とはいえ共に飯を食い、共に肩を並べる間柄になるのだ。語れる範囲の内でも、聞きたいと思うのが人の性だろう。
「いいかい? これは内緒の話だ。昔々……そのまた昔。かつて、まだヒトが一つだった頃。人々は悪しき神々のくびきから解き放たれるべく戦っていた。もう、だぁれも覚えちゃいないのだろうけれど。ワタシもその一人。神殺しを為した大罪人という訳さ」
「ッ……!!!!」
「っぇ……!! びっくりし過ぎて逆に冷静になっちゃいましたよ。人間と魔族が争うよりも昔って……少なくとも千年以上前……もうおとぎ話の世界じゃないですか……」
不敵な笑みと共に静かに語られた言葉は、シズクにとっては勿論、テミスにとって途方もない衝撃で。
テミス自身の身の上を語るうえで避けて通ることの出来ない、『神』という存在に言及せしめたニコルに戦慄の視線を向けながら、テミスは無意識に生唾を飲み下していた。
「あれッ!? ……って事はつまり、ギルティアさ……あの魔王様もッ!?」
「んふふふっ!! いやいやまさか。当時のギル坊はまだまだこぉんな小さい子供さね。いつだったか立ち寄った町でワタシ達の旅に押しかけてきてね。仲間の一人が見込みがある……なんて言って、色々仕込んでいただけさ」
「……とんでもない話だ。だが、同時に納得もした。事の真偽は兎も角として、それ程力ある者達に師事していたのなら、奴のあの馬鹿げた強さにも筋が通る。だがそんな事よりも――」
「――おっと」
聞きたい事は山ほどある。と。
明かされた途方もない話に、朗々と楽し気に語るニコルへ向けて、テミスが身を乗り出して問うべく口を開きかけた時だった。
まるでそれを予見していたかの如く、ニコルは身を乗り出したテミスの眼前に掌を翳すと、クスリと頬を歪めて言葉を続ける。
「悪いけれど。この件についてはこれ以上は話せないさね。今を生きるキミたちが知るべきではない事もあるって事さ。気持ちは理解できるけれど……ワタシが何者かを知るには十分だろう?」
「っ……!」
「凄いッ!! 凄いです!! 勿論、お話は聞きたいですけれど……!! テミスさん!! 私、震えが止まりません!!」
「あ……あぁ……」
「クククッ……!! 当時の事は話せないけれど、代わりにワタシ個人の旅の話なら聞かせてあげよう。弟子と言えば……あれは三十年くらい前だったかな。珍しく気が向いたから、ここから東の方へふらっと向かった時だ。小さい村で、妙ちくりんな言い回しをする子供に薬学を教えてやった事があってね」
未だに衝撃が抜けきらないテミスと、興奮に目を輝かせたシズクを前に、ニコルは笑顔を浮かべたまま再び昔語りを始めたのだった。




