1613話 ほんの僅かな休息
テミス達がニコルに部屋へと押しやられてからしばらく経つと、館の廊下には何とも言えない良い匂いが漂い始める。
焼けた肉の重厚な匂いや、様々な野菜の入り混じった華やかな香りは、腹をすかせたテミス達にとっては予想を遥かに超えて暴力的で、テミスは綺麗に整えられたベッドにその身を横たえながら、無意識に自らの腹を撫で回していた。
「…………。くそ……」
テミスは明かりを落とした部屋の中で、ぼんやりと視線を中空へと向けたまま忌々し気に呟きを漏らす。
確かに、今日は昼過ぎに金の鉄鍋亭を出てから動きっぱなしだったせいで、ロクに食事を摂ってはいなかったが、ここまで腹が減るのも我ながら珍しいように思える。
思えば、この途方もない空腹感を覚えたのは昨日からだっただろうか。
あの時は、金の鉄鍋亭の料理が流石は高級な店を謳うだけあって、相応に美味い所為だと思っていたが、どうやらそういう訳でも無いらしい。
「成長期か……? というか、この身体に成長期なんてものは存在するのか……?」
年の頃は少女然としているが故に、外見どうりの年齢ならば、確かに食べ盛りな年ごろとも言える。
だが、そもそもこの身体自体が人間と呼んで良いかもわからないような代物なのだ。
一通りの人間的な機能は備えてこそいるようだが、肉体的に成長をする……つまり老いる事があるのかはわからない。
もしも、この身体がヒトを模っただけの存在なのだとすれば、日々の生活や戦闘で消費したエネルギーを補充するだけで事足りるが故に、そこまで多くのエネルギーは必要無い筈だ。
「それとも、単純に疲れが出ているだけかもしれんな。なにせこの町に辿り着いてからというものの、ルードの奴とやり合ったり、町中を駆け回って物資を買い集めたりと働きづめだったからな。腹の一つも減るだろうさ」
ともあれ、面倒事の気配は香って来るものの、ひとまずは安心して寛ぐことの出来る拠点も手に入れ、ギルティアからの『お使い』をこなす算段も付いたのだ。旅の進捗としては順調と言って差し支えがないだろう。
そうテミスは胸の内でこれまでの旅路を振り返りながら、ベッドに横たえていた体をゆっくりと起こすと、皮肉気な笑みを浮かべてひとりごちる。
当面の問題は、妙な動きを見せ始めている双月商会の動向と、何故か双月商会の軍門に下って動いているルードの狙いだ。
事と次第によっては、あのルードと真っ向から本気で事を構える必要が出て来るし、あのクロウとかいう男も戦うとなれば一筋縄ではいかなさそうだ。
「……願わくば、至極平穏に。何事も無いと良いのだがなぁ……」
テミスは、身体を支える手に自らの体重を預けてそう嘯くと、ゆっくりと長くため息を漏らした。
既にニコルやセレナの平穏を害する形で事が動いているのだ。何事もなく収める……などという段階はとうの昔に過ぎてしまっているのだろう。
下手をすればこの町だけではなく、双月商会が勢力を伸ばしている他の町にも大きな影響を及ぼしてしまいかねない。
「ハァ……面倒臭い……。どうして道理を捩じ伏せてまで無理を押し通そうとするのだ。無理だからといって死ぬわけではないのだ。素直に諦めれば良いだけの話だろう」
テミスはこれから起こり得るであろう問題を脳裏に思い起こすと、それだけですぐに嫌気がさして盛大にため息と共に文句を漏らした。
無論テミスとて、ヒトの営みがそんなに単純で善性に満ち溢れたものでない事くらいは承知している。
むしろ他者を簡単に信用する事ができないからこそ、誠実さだとか勤勉さだとかいったヒトの性質が価値を帯びるのだろう。
「フッ……やれやれ。これなら、シズクとくだらない話でもしていれば良かったな。どうにも気が滅入っているように思える」
止めどなく思考が加速し始める直前に、テミスはかぶりを振って物思いにふけりそうになる頭を半ば無理矢理切り替えると、身を落ち着けていたベッドから立ち上がって身体を伸ばした。
そうこうしている間に、そろそろニコルからお呼びがかかっても良い頃合いの筈だ。
ならば食事の折くらい、面倒な事柄に思案を巡らせずに楽しみたいものだ。
「ッ……!! よし!! ここはひとつ、気分を変えるとしようか!!」
身体を伸ばし終えたテミスは、自らの頬をぱしりと叩いて意識を切り替えると、部屋の片隅にぞんざいに置かれていた荷物から一本の紐を引っ張り出して、頭の後ろで手際よくその白銀の髪を一つに束ねたのだった。




