1611話 譲れぬもの
悪い冗談だ。と。
クロウと名乗った兎人族の男と対峙したテミスは、胸の内で密かに悪態を吐いた。
隙の無い身のこなしに、腰に提げた一対の短刀。どこからどう見てもその装いは腕を磨き上げた戦士のそれで。
だというのにも関わらず、こいつは自らを商人と名乗り、今もこうして慇懃無礼な言葉と共に頭を下げているのだ。
「……確認。だと?」
「ハイ。確認です。先日の一件は不幸なすれ違いでしたから。勿論、我々とて貴女の気質は些少なりとも理解しております故、致し方の無い事だと飲み込んでおります」
「それは結構。目障りな連中を始末しただけで咎められては堪らんからな」
「……ですが、これは戴けない。この屋敷の住人は、町を住み良くせんとする我々に非協力的でしてね。傘下の店共々お付き合いをお断りさせていただいているんですよ」
「クス……その論法で言うと、冒険者ギルドもお前達に非協力的な態度を見せたが故に、あの手の連中が差し向けられたというようにも聞こえるが?」
「然り。既存の権益を独占するなど許されない事。その協力者もまた例外ではありません」
「婉曲な言い方だな。まどろっこしい。はっきりとモノも言えんのか?」
静かに斬られた口火はみるみるうちに激しさを増し、瞬く間に嫌味と暗喩の入り乱れた舌戦へと発展した。
元よりテミスとしては、双月商会と事を構えるのは既に前提のようなもので。
だからこそ相手の出方を窺う必要も無く、自らへと向けられる言葉の棘を片端から叩き折るような真似ができる訳だが。
「……困りましたね。我々としては、お二方と良好な関係を築かせていただきたいと考えているのですが……。如何なるおもてなしならばご満足いただけるのでしょう?」
「簡単な話だ。口を出すな。邪魔をするな。悪さをするな。この三つを守ればその願いは容易く叶う」
「勿論ですとも。ですが、今の貴女の行いは間違っておられる。それをご忠告差し上げる事は御許しいただきたく……」
「早速……口が出ているぞ?」
「はは……取りつく島もなし……ですか……。これはどうしたものか……」
ニコニコと人の良い笑顔を浮かべたクロウが慎重に言葉を重ねると、テミスは意地の悪い笑みを浮かべてにべもない返事を突き返した。
交渉の余地など無い。そう言外に告げているにも関わらず、クロウは粘り強く食い下がってきて。
なるほど、確かにこういう一面だけは商人のようだな。と。テミスは心の片隅で、どこか他人事のように呟きを漏らした。
そうしている間にも、クロウは何かを考え込むかのように周囲へと視線を彷徨わせると、テミスの傍らに控えるシズクに留めて口を開く。
「っ……! そうだ! 貴女の方からも、是非お口添えをして頂けませんか? 私達が無理に対立する必要はないのです。私たちならば物資供与や輸送など、様々な事でお力になる事ができます! ……ギルファーとファントの友好を更に密にするために!!」
「え……えぇと……。ごめんなさい。素晴らしいご提案だとは思うのですが……。私にそれを決める権限はありません」
「いえ! いえ!! いえッ!!! 権限など必要無いのですよ!! 我々のご提案を良いものだと思っていただけたのならッ!! ただ国を思えばこそのそのお気持ちに従って戴ければッ!!」
「ですが……!!」
「フッ……」
標的をシズクへと切り替えたクロウは、ニコニコと笑顔を浮かべて勢い良く言葉を重ねると、自らの懐から一枚の封書を取り出して、門の隙間からシズクへ向けて差し出した。
傍らのテミスからしてみれば、こいつの主張には何の具体性も無く、聞くにすら値しない詐欺のような話にしか聞こえなかった。
仮にこの場にフリーディアが居たのならば、あの能天気な女であっても、悪意を度外視して具体案を詰める事くらいはやってのける筈だ。
「ククッ……あながち、それも面白いかもしれんな……」
戸惑うシズクを眺めながら、テミスは胸の内でフリーディアが善意を理由に物資の無償支援や輸送の恒常化など、商人も裸足で逃げ出すような慈悲の無い具体案をぶち上げるのを空想すると、クスクスと楽し気に微笑みを漏らした。
けれど、クロウの口撃に晒されている当のシズクは既に限界のようで。
先程から助けを求めるように伸ばされたシズクの手が、密かにテミスの腕を固く掴んでいた。
「やれやれ……。そろそろ良いんじゃないか? もう解った筈だろう。如何に策を弄しようが結果は変わらないと」
「――。……どうしても、そのお考えを変えてはいただけないので?」
「あぁ。お前達のやり口が気に食わない。交渉が通らねば今度は力や脅しで屈服させるなど、商人というよりむしろ盗賊と呼んだ方が正しいだろう」
「ッ……!!! ……畏まりました。今日は戦いをしに来た訳ではありませんので。一度この話は持ち帰らせていただきます」
景気良く喋り続けるクロウに、横合いからテミスがピシャリと口を挟むと、僅かな緩みを見せていた空気は一気にピリリとした緊張に包まれる。
しかし、クロウはテミスの挑発に一瞬だけ眼光鋭く睨みを利かせたものの、腰の武器へと掌を走らせる事は無く、身を翻して歩き始めた。
「……もしも、お気が変わる事が御座いましたら、当商会の建物までお越しください。いつでもご歓迎させていただきます」
そして、クロウはテミス達に背を向けたままそう捨て台詞を残すと、片手を挙げて周囲に身を潜めていた者達に合図を送ってから、闇が濃くなり始めた夕暮れの中へと立ち去っていったのだった。




