1601話 天駆けの秘策
「さて。行くとするか」
ゆっくりとコーヒーを飲み終えたテミスは、ソファーから立ち上がって手早く身支度を整えると、最後に大剣を背負ってシズクへと告げた。
無論。部屋に残っている物は、元からこの部屋に備え付けられていた物ばかりで。
テミス達が持ち込んだものは一つとして残ってはいない。
「はい。お供します」
「待てシズク。そっちじゃない」
「えっ……?」
その声に応えて、シズクもまた身を落ち着けていたソファーから立ち上がると、まるでテミスを先導するかのように部屋の出入り口へと足を向ける。
だが、テミスはそんなシズクを呼び止めると、入り口とは逆方向の窓へ向けて歩み寄っていく。
「っ……! テミスさん……まさかとは思いますが……」
「あぁ。今日はここから外出だ。昨日の夕食の席で確認した時で三人。下のラウンジには入れ替わりで常に見張りが詰めている。一つしかない出入り口だ。そこに人を排するのは定石と言えば定石だが……」
「……ああいう食堂に、テミスさんにしては長居するなとは思っていましたが、まさかそんな事を観察していたとは思いませんでした」
「ククッ……この手の搦め手はあまり好かんからな。やり飽きてるんだ。だが、偶には悪くない」
「ですが、先程のテミスさんのお話ですと、窓から出ても別の見張りが居るのではないですか?」
「まず間違いなく居るだろうな。だが、連中の本命は見張りよりも情報収集だろう。待ち構えている奴等を突破するより遥かに容易いさ」
窓へテミスが歩み寄った途端、何かを察したかのように息を呑んだシズクと何気ない会話を交わしながら、テミスはガチャリと窓を開けて吹き込んでくる外の空気に長い髪をそよがせた。
その姿は、常識的な観点を持つ者が見れば、外出前に部屋の空気を入れ替えるべく窓を開けているようにも映るのだろう。
しかし、テミスの狙いはあくまでも宿の出入口を用いずに、ここから外へと出る事。
故に、そのまま窓から身を乗り出したテミスは、手頃な道を探すべく周囲へと視線を走らせた。
「フゥム……やはり主流はスライド式ではなく跳ね上げ式の窓なのか……。確かにこちらの方が、シンプルな造りではあるが……。飛び出す時に引っ掛けないように気を付けないといけないな……」
視界の端でこちらの様子を窺っていたらしい人影が慌てて身を隠すのを黙殺しながら、テミスはブツブツと考えを口から零しつつ、窓を支えるための突っ張り棒を立て掛ける。
目的地である古くてデカいボロボロの屋敷とやらは、町の西側の外れにあるらしい。
だが、監視の目を撒く都合上、一度北か南へ逸れてから目指すべきだろう。
胸の内でそう呟いた後、テミスは窓から身を乗り出したままシズクを振り返って口を開く。
「となると……よし。シズク。準備は良いか?」
「っ……! はい。覚悟はできています」
「良いだろう。だが……土地勘のない場所での追いかけっこだ。地の利は向こうにある。初動で振り切るぞ。気合を入れて付いて来い」
「わかり……ましたッ……!!」
自らの問いにシズクが力強く頷くや否や、テミスはそのまま倒れ込むように窓の外へと身を躍らせると、掴まった窓枠を鉄棒代わりに前転の要領で一回転して宿の外壁に足をつける。
そして、壁を蹴って自らの身体を宙へと打ち出し、宿の前に横たわるそこそこの道幅を持った通りを飛び越えて、対岸の建物の屋上へと軽やかに着地した。
「――ッ!!」
テミスが飛び出してから数拍の間を置いて、テミスと同じ方法では到底後を追う事などできないと察したシズクは一度窓から距離を取り、助走を付けてから潜り抜けるようにして窓へと飛び込んだ。
その頃には、テミス達の突拍子もない行動に驚愕した監視たちが、身を潜める事すら忘れて、宿に隣接した建物の屋上から唖然とした様子で二人の様子を眺めていた。
「っ~~~!!! くっ……!!!」
クルリ。と。
空中で身を翻して身体を一回転させたシズクは、着地に備えて歯を食いしばると、飛び出した勢いを殺せぬままにテミスの待つ建物の屋上へと着地する。
しかし、全力で助走をつけたせいで勢いが余り、ゴロリと転がって受け身を取る羽目になった。
「フフ……良い根性だ。シズク」
「ハァ……ハァッ……!! ありがとう……ございますッ!!」
「奴等の慌てようを見てみろ。ククッ……傑作だな」
「ハ……ハッ……! はい……。何故でしょう。少しだけ……気持ちが良いです」
息を乱したシズクの隣に立ったテミスは、対岸の屋上で狼狽える監視たちを見てクスクスと笑うと、シズクの外套についてしまった汚れを払いながらそう嘯く。
愉し気なテミスの言葉に、シズクは胸の内から湧き上がる微かな高揚に、笑顔を零しながら答えを返した。
「よし。念のため、このまま暫く屋上伝いで行くぞ。付いて来い」
そんなシズクに、テミスは笑顔を浮かべたまま頷きを返した後、再び隣の建物へと飛び移るべく、身を翻して駆け出したのだった。




