1560話 静かなる処刑
じわり……。と。
地面の上でじたばたと藻掻くサージルの傷口から、夥しい量の血が溢れ出て闘技場の地面へと広がっていく。
テミスの手によって切り裂かれた脇腹の傷は、深々と喉元まで達している。
決着だ。
この戦いを見守っていたリョースとコハクはそう確信すると、何処か凪いだ心持ちでゆっくりとサージルへ歩み寄っていくテミスに視線を送っていた。
その足取りは、まるで大きな荷物でも引き摺って歩いているかのようにとても重く、武人であるコハクとリョースには今テミスの身を襲っているであろう凄まじい疲労が、我が身の如く想像できた。
だが、勝者には果たすべき義務がある。
それを弁えているからこそ、リョースとコハクは戦いが終わった今も尚、黙したままただ見守り続けていた。
「ゴブッ……ブ……ヒュー……。ア……ガ……ガッ……!!」
「……苦しいだろうな? 胸を半分断ち切ったのだ。喋る事はおろか、まともに呼吸をする事すら出来まい」
テミスは耳を塞ぎたくなるような湿った呼吸音を繰り返すサージルの傍らに立つと、地面の上から憎悪の籠った瞳で自らを睨み付けるサージルへ淡々と言葉を投げかける。
「この出血だ。頑強な肉体を持つお前であっても持って十分……いや、これまでに流した血の量を考えれば五分程度といった所か……」
「ッ……!!! ガァ……ァ……ァァ……!!! ゴボッッ!!!」
激しく傷付いて尚。
サージルはテミスに何かを訴えるかのように血に塗れた唇を動かすが、紡いだはずの言葉がその口から発せられる事は無く、代わりにひと際大きな血の塊を吐き出した。
テミスがサージルへ与えたこの傷は、紛れもなく致命傷だ。
しかし、テミスが受けたような手を施す暇すらなく死に至るような傷ではなく、優秀な治癒術師が全力で手を施せば、万に一つ助かる可能性がある程度の致命傷だった。
無論。テミスが決して相容れる事の無い害敵であるサージルを癒すような、慈愛と博愛に溢れた精神性を持ち合わせているはずも無く、命令を受けた治癒術師が飛び出してくる事も無い。
故に。リョースとコハクは真なる戦いの終わりを見届けるべく、満身創痍の身体に鞭を打ってテミスを見守り続けていたのだが……。
「喜べ。お前が私の手で死ぬ事は無い」
「……!? グフッ……!! デミッ……ス……オ……前……ッ……!!」
テミスはサージルの傍らに立ったまま、腰から鞘ごと細剣を引き抜くと、ドスリと石突を地面へと突き立ててそう宣言した。
その足元では、憎しみと苦痛で表情を歪めたサージルが、辛うじてテミスの名を紡ぐ。
「また女神の奇跡とやらで命を拾ったのならば、何度でも挑んで来るが良い。その度に私は、何度だろうとお前を倒そう。だが……止めなど決してくれてやるものか。お前を倒した後は、こうしてただ死ぬのを眺めていてやる」
「ッ……! ッ……!! ッ……!!!」
「せいぜい苦しめ。せいぜい呪え。無駄に頑丈なその身体を。幾度非業の死を迎えようと、お前を戦いへ送り込むあの女を」
「ゴフッ……!! カ……ヒュッ……。……ろ……せ……」
けれど、テミスはただ冷酷な目でサージルを見下ろしながら言葉を紡ぐだけで、剣の柄頭で重ねられた手をピクリとも動かす事は無かった。
それ以降テミスが言葉を紡ぐ事は無く、弱々しく響くサージルの呼吸音と、時折苦し気な咳と共に発せられるうわ言のような声だけが響く陰鬱な時間が続いた後。
遂に不規則に刻まれていた呼吸音も途絶え、サージルの瞳に宿っていた生命の光が消え失せる。
「…………」
サージルの命が途絶えてから更に十数秒。
テミスは石像の如く動かず、骸と化したサージルを見据え続けてから、突然グラリと体勢を崩してその場に崩れ落ちた。
「テミス……」
「…………。……敢えて問おう。何故、このような真似を?」
その身体が地面に横たわる前に肩を支えたのは、サージルが息絶えた事によって状態異常から解放されたリョースとコハクの手で。
しかし、沈痛な表情を浮かべた二人がテミスを労う事は無く、代わりに押し殺したような声でリョースが問いかけた。
「……殺しても死なんと言うのならば、心を殺すしかあるまい? 全く……心の底から忌々しい。コイツには欠片ほどの同情も無いが……哀れではあるな……」
「っ……! テミス……お前……。ッ……すまな――」
「――何も言うな。それで良い。ただ……少し……疲れた……」
静かに告げられた問いに、テミスはクスリと皮肉気の頬を緩めると、静かな怒りと憐憫を漂わせた声色で言葉を返す。
そんなテミスに、リョースは自らが斬り付けられたかの如く目を見開いて歯を食いしばった後、謝罪の言葉を口にした。
だが、テミスはリョースの言葉を遮った後、途切れ途切れに言葉を紡ぎながら、急速に遠ざかっていく意識を手放したのだった。




