1556話 秘中の秘
「フム……?」
それは、不思議な感覚だった。
まるで自分の存在だけが、ぽっかりと世界からズレてしまっているかのような感覚。例えるのなら、汚染された毒ガスの中に佇んでいるはずなのに、いくら呼吸を繰り返そうとも、清浄な空気が肺を満たすようで。
事実。
その感覚を裏付けるかのように、先程まで膝を付きながらも立ち上がらんと足掻いていたリョースとコハクは、辛うじて身体を支えてはいるものの、地面へと突き立てた得物にぐったりと身を預けている。
けれど、テミスは特に異常を感じる事も無く、身体もつい先ほどまでと同じように動かせていた。
「な……んでッ……!? 五重掛けだぞ……? 立っていられる訳が……ッ!!」
「……その様子だと、やはりお得意の小細工を弄しているらしいな? だが残念。御覧の通り調子は良好だ。まぁ……何故だかは知らんが」
「ッ……!!! 死に損ないがッ……!! 調子に乗るなよッ!!! ご自慢の大剣は……鎧はどうしたッ!?」
「ハッ……。置いてきたんだよ。私の大剣も甲冑も、ブラックアダマンタイト製だぞ? お前には過ぎた代物だ」
「吹いてろよ雑魚。さっきは手も足も出ずに一撃でやられた癖に」
「あぁ……。あれは確かに痛恨だった。先入観の恐ろしさを思い知ったよ。二度と同じ轍は踏まん」
サージルの能力の影響下に居て尚、テミスは顔色一つ変える事無く飄々と言葉を返すと、逆上したサージルが口角から泡を飛ばしながら怒鳴り散らす。
しかし、いくら挑発を重ねようとテミスは怒鳴り返す事すらせず、氷のように冷たい眼差しをサージルへと向けていた。
「ハハッ……!! お前馬鹿だろ? 同じ轍は踏まん……だぁ? だったら何しに来た訳!? 命乞いでもしに来たってのか?」
「やれやれ……。勝ち誇った顔で今更何をわかり切った事を……。お前を殺しに来たに決まっているだろう」
「やっぱ馬鹿じゃねぇか! ソイツらと一緒でさァ!! 今の俺には剣も魔法も効かないんだよッ! 俺が喰らったダメージはそのままお前達の身体に押し付けられるッ! インガオーホーってヤツだッ!!」
「やはり……か……」
声高に己が能力の正体を喧伝したサージルに、テミスは呆れたように小さく息を吐いた。
戦いの場において情報は命にも等しい。それが特に、自らを強者たらしめている能力に関するのならば特にだ。
自らの優位を誇示しこちらの戦意を挫く為か、サージルは自ら秘中の秘であるはずの情報を明かしたのだ。
無論。この情報自体が嘘で、何か狙いがあるという可能性も捨てきれない。
だが先程、ブラックアダマンタイトの鎧を外した時、血で酷く汚れこそしていたものの傷付いてはいなかった。
加えて鎧の内側に着込んでいたこの服もそうだ。
仮に斬撃を跳ね返したのなら、鎧や服も同じく切断されていなくては通りが通らない。
けれどもしも、奴の語った通り自分が負った傷そのものを反射していたのだとしたら?
「――最初からお前に勝ち目なんて無いんだよッ!! 攻撃が効かない俺をどうやって殺すつもりなんだ? えぇッ!?」
「…………。空間跳躍か事象の反転か。こちらの防御を無視した直接攻撃ならばどう対処するかと思っていたが。……相変わらずという訳か」
恫喝するかのように吠えるサージルに、テミスは肩を竦めて淡々と呟きを漏らした後、ニヤリと表情を歪めて言葉を返した。
能力も魔力も使えず、膂力も人間並みに落ちた今。
理不尽な搦め手ではなく、純然たる力押しで来られた方が遥かに厄介だった。
当然、怒りに呑まれた態度も含めて罠である可能性も否定しきれない為、慎重に慎重を重ね、間違っても一撃で決着を付ける事は避けるべきだ。
「ならば、試してみるとしよう。本当に殺す事ができないのか否か……。ちょうど先日、殺しても死なない奴を見たばかりだからな」
尤も、サージルは今も尚ファントの地下牢に繋いであるマモルとは根本から性質が異なるのだろうが。
テミスは怒るサージルを挑発するかのようにそう嘯くと、胸の中で言葉を付け加えながら細剣を構えてみせる。
己の能力に盲信的な自信を持つサージルならば、ともすれば抵抗せずに斬らせてくれるかもしれない。
そう出てくれればあとは、片っ端からサージルに傷を負わせる方法を試すまでだ。
自信に満ちた笑みを張り付けながらも、テミスの胸の片隅には一種の願望も混じっていたのだが……。
「そう簡単にヤらせると思うか? どうやって生き返ったのか知らねぇが、もういっぺん殺してやるから後悔して死ねッ!!」
そんなテミスを嘲笑うかのように、サージルは手に携えた剣を不格好に構えながら、その切っ先を突き付けて叫んだのだった。




