1547話 狭間の揺蕩い
精神感応魔法を使ったギルティアの視界に一番最初に飛び込んできたのは、まるで霧の中にでも飛び込んだかのように白く濁った空間だった。
本来ならば何も無いだだっ広い空間に、人格の主たる者が佇んでいるものなのだが、視界の利かない白濁の中ではそれを見付ける事すら困難で。
ギルティアは小さく舌打ちをすると、周囲に目を凝らしながらゆっくりと移動を始めた。
「この霧は……蘇生魔法の影響か? それとも……」
ギルティアは体内を思わせるような生暖かい空間をゆっくりと進みながらひとりごちると、ふと思い浮かんでしまった最悪な閃きを素早く封殺する。
精神感応魔法はその名の通り、対象者の精神へと働きかけるものだ。
故にもしも、対象者の精神が既に壊れてしまっていたとしたら? 死に瀕した肉体よりも先に、心が死んでいてしまったら……?
本来佇んでいるはずの人格が居らず、代わりにこの霧のようなもので満たされているという事はつまり、今知覚しているこの空間はがらんどうな廃墟のようなもので、周囲に漂っているこの霧のようなモノこそ、かつてテミスの人格だったものではないのか……?
しかし抑え込んだところで、白く染まった視界の中を進むたびに、不安は固く閉じた蓋の隙間からじわりじわりと漏れ出してくるかの如く漏れ出し、緩やかにギルティアの心を焦燥へと塗り替えていく。
「ッ……!!! どこだ……テミス! テミスッ!!」
ここが精神世界である以上、如何に強大な魔力を有するギルティアであっても、ただのヒト以上できる事は無い。
それを熟知しているからこそ、じりじりと焦れ始めたギルティアは声を張り上げてテミスの名を呼びながら、果ての見えない虚無の中を進み続けた。
一体どれほどの時間探し続けていたのだろう。
ギルティアは白一色に染まった視界の中に、ふとポツリと浮かび上がっていた人影を見付けると、安堵が胸に広がっていくのを感じながら、そちらへ向けて真っ直ぐに突き進んでいった。
そこには、テミスの姿をしたぼんやりと曖昧な輪郭を持つ人影が、身体を丸めた格好で蹲っていた。
「っ……。おいテミス。こんな所で何をしている」
「…………」
「フン……この『俺』をここまで出向かせただけでなく、寝たふりを決め込むとはいい度胸だな? 精神体であるお前は睡眠を必要とはしない。観念したらどうだ?」
「…………」
「ッ……!! いい加減にしろッ! テミスッ!!」
しかし、傍らにまで近寄ったギルティアがいくら語り掛けても、テミスの姿をした人影が反応を示す事は無かった。
そんなテミスに、ギルティアは苛立ちを露にすると、曖昧な輪郭を象る人影の、肩辺りを掴んで強く揺さぶった。
「……っ。 ん……ぁ……? なんだ……ギルティア……か……」
「なに……!」
けれど、睡眠の必要無いはずの世界で、どうやらテミスの姿をした人影は本当に眠っていたらしく、酷く気怠げに目を擦りながらゆっくりと目を開くと、横たわった格好のまま口を開く。
「夢を……見ていたんだ。嫌な夢だった。まるで……歪んだ鏡を見せられているかのような……」
「そうか。ならば幸運だったな。悪夢から覚めたのならば、さっさと目を覚ませ」
「……。いや……」
テミスは言葉を交わしているギルティアですら、眠気を色濃く感じ取れるほどゆっくりとした口調で言葉を紡ぐと、まるで再び眠りに入ろうとしているかの如くもぞもぞと頭を動かしてみせた。
だが、体勢こそ完全に寝直す構えに入ってはいるものの、傍らにギルティアが居る事を失念してはいないらしく、テミスはどうしようもなく緩んだ声色で言葉を続ける。
「……私は良いよ。とても眠たいんだ。もう休ませてくれ」
「馬鹿を言うな。お前……自分が何を言っているか理解しているのか?」
「どうでもいい。兎に角、何もしたくない。放っておいてくれ」
「そうはいかん。どうした? 寝言にも似た泣き言など……お前らしくもない」
まるで起床を渋る子供のように駄々をこねるテミスに、ギルティアは根気良く淡々とした口調で言葉を重ねた。
ここはテミスの内面。いわば彼女の世界なのだ。
今は魔法を用いて干渉する事ができているが、この世界の理に等しい彼女の側から拒絶されれば、魔法自体が弾かれてしまう可能性もある。
仮に精神への感応自体は続ける事ができても、彼女自身であるこの目の前の人影が、姿をくらましてしまっては何もする事ができない。
故に。
ギルティアは機嫌を損ねてしまわないように慎重に言葉を選ぶと、自らの目標を達する為にテミスへと告げた。
すると……。
「…………。私らしい。ねぇ……」
「っ……!!」
ぐにゃり。と。
テミスの姿をした人影は鎌首をもたげた蛇のように頭を上げ、相も変わらず眠気に満ちた瞳をギルティアへと向ける。
しかし、緩んだ口調や瞳から受ける印象とは裏腹に、テミスの姿をした人影は異様な気配を放っていて。
「勇猛果敢で、いつも決して諦めない事が……か……? 止めてくれ。気付いたんだ、私には……何もないのだと」
そんなテミスの気配にギルティアが口を噤んだ隙をついて、テミスは諦観の籠った声色の中に、どこか寂し気な色を滲ませながらそう嘯いたのだった。




