1546話 初源の記憶
――あぁ、またここか。と。
テミスは微睡みに似た感覚に身を浸しながら、胸の中でひとりごちる。
周囲を見渡した所で目に映るものは無く、ただ一面真っ白な世界だけが広がっていた。
視界を遮る塀どころか、上や下も無い一面の白。そんな真っ白の中に浮かんでいるだけなのに、何故かほんのりと温かい。
強いて違いを挙げるのならば、いつもははっきりしているはずの意識がうすぼんやりとしていて、ついさっきまで自分が何をしていたのかさえ思い出せない事くらいだろうか。
「まぁ……どうでもいい……か……」
思い出せないという事は、どうせ大した事ではないのだろう。
テミスは纏まらない思考を早々に放棄すると、眼前に満ち満ちている心地よさに身を委ねた。
思えば……ふとこの場所で気が付くまで、何か夢のようなものを見ていた気がする。
それも、遠い……遠い昔の夢。
誰の顔だったかも思い出せないくらいに擦り切れた彼方の思い出。
あれは、いつの事だっただろうか。
「…………」
最初はただぼんやりと見ていた夢を思い返していた程度だった思考も、時を経るごとに少しづつ加速していき、そのお陰か頭の中で擦り切れていたはずの思い出が僅かに形を帯びてくる。
そうだ。あれは私が……俺がまだ子供だった頃。
近所には、目を見張るような黄金色の髪をした女の子が居たんだ。その子は確か、俺よりも一つか二つ年上で。事あるごとにお姉ちゃんぶった態度を取ってくるから、俺は酷く煙たがっていたんだっけ。
「何で……今更……」
自分ですらもすっかり忘れてしまっていた思い出に、テミスは独りボソリと言葉を零す。
今こうして思い返してみれば、なるほど確かに彼女は雰囲気がフリーディアの奴と似ていたかもしれない。
けれどそれだけの話。
こことは場所が遠く離れているどころか、世界からして異なるのだ。記憶の中の彼女とフリーディアが同一人物であるはずが無いし、そもそも顔もそこまで似ていなかったような気もする。
「あぁ……そうか……」
そして、テミスがふと思い出すと同時に、朧げな記憶の中の少女の顔に、大きな傷が走った。
この記憶はあの時……かつての俺が、無力な正義に絶望した時のものだ。
はじめは何のことはない、ただの子供の言い争いだった。
やんちゃ盛りな男の子を、ひときわ正義感の強い女の子が諫める。ただそれだけの話。
けれどその時に運が悪かったのは、『敵』であるわんぱく小僧の中に、とんでもない悪ガキが混じっていた事だった。
女の子に諫められて腹を立てた悪ガキは、あろう事かそこいらに落ちていた木の棒を拾い上げて殴りかかったのだ。
恐らくは、壊れた柵の一部か何かだったのだろう。
悪ガキが振るった角材の先に埋まっていた釘は、勢いのままに女の子の顔を引き裂いて大きな傷を付けた。
迸る鮮血の色と、空気を裂くような甲高い悲鳴……そして顔すら思い出せない悪ガキの捨て台詞だけは、いまでもよく覚えている。
「お……お前が悪いんだ!! 俺は悪くない! お前がうるさいこと言って来るのが悪いんだ!! ザマアミロッ!! 二度と逆らうなッ!」
憎たらしいその言葉を聞いてからはぷつりと記憶がない。
思えば、あの女の子の顔を見たのは、この時が最後だったような気がする。
「これほどまでの事……何故忘れて……っ……!? これ……は……」
あまりにも懐かしい、けれど胸糞の悪い思い出。
ふと気が付くと何故か、テミスの頬には止めどない涙が伝っていて。
涙と共に押し寄せる悲しみの感情に飲み込まれたテミスは、心地よく浮かんでいた筈の場所から水底へと引きずり込まれるかの如く、強烈な浮遊感に襲われた。
しばらくその浮遊感が続いた後、突如としてテミスを襲ったのは途方もない怒りと憎しみだった。
殺してやる。
そう、初めて殺意というものを抱いたのは確かにあの時だった。
それまでの俺はどうしようもない甘たれで。生意気ばっかり垂れる癖に、いつも『お姉ちゃん』にべったりと懐いていたんだ。
「ククッ……あぁ……そうか……」
そこまで思い出して、テミスはようやく理解する。
これは自らの奥底に眠っていた初源の記憶。
周りの大人や遠巻きに見ていた子供たちが、大慌てで怪我をした女の子へと駆け寄る中。
俺はただ一人、怒りと憎しみに駆られて悪ガキへと向かって行ったんだ。
大好きだったはずの『お姉ちゃん』を心配して駆け寄るでもなく、ただ彼女を傷付けた敵を殺す為に。
次に思い出したのは、沢山の大人たちに抑え込まれた自分の足元で蹲り、青息吐息で泣き喚いている悪ガキの姿と、悪ガキの周囲に飛び散っている無数の血だった。
「ハッ……!! とんだ夢だ。私はあの時からこうだったのか……」
テミスは思い出した響き渡る怒号と鮮血の色で彩られた記憶に首を振ると、皮肉気な微笑みを浮かべて吐き捨てた。
いつの日だったか、フリーディアの奴が我々が胸に抱く正義が、根本は同じだとか抜かしていた。
だが、実際はこれだ。私の中に在るのは、ただ純然たる怒りと憎しみだけで。
我々の間に、重なっている思いなど何もないではないか。
「やれやれ……なぜこんな悪夢なんか……。最悪の気分だ」
深いため息と共に、テミスは顔を顰めてそう独り言を零すと、不貞腐れたように寝返りを打ったのだった。




