1542話 希望を求めて
リョースとコハクがサージルと相対している間。
フリーディアは、ギルティアとドロシーに治療を施されているテミスの傍らで、ただ膝を付いている事しかできなかった。
――戦っている。みんな、戦っている。
私も戦わなくちゃいけない。そう解っているはずなのに。
目の前で目を瞑り、倒れ伏したテミスから目を離す事ができない。
「ぁ……ぅっ……」
いつも皮肉気な微笑みを湛えていたその顔は、まるで眠っているかのように穏やかで。
こうして見ると、いつも遠くに感じているテミスが、自分とそう年頃の変わらない少女であることを痛感する。
けれど。血の気が失せた青白い肌から生気は感じられず、今ひとたび目を離してしまえば、もう二度と会う事ができない。
そんな焦げ付くような恐怖が、フリーディアの体をこの場に縛り付けていた。
「フリー……ディア様……ッ……!!」
「ッ……!!!」
押し殺したような声と共に、自らの肩へと優しく置かれたカルヴァスの手に、フリーディアはビクリと肩を跳ねさせて小さく首を振った。
カルヴァスの声はとても優しかったけれど、今だけはそんな声で語り掛けて欲しくなかった。
長い間自分の傍らに立ち、共にここまで来たからこそ解ってしまう。
現実を受け入れろ。と。己の目に映る辛すぎる事実から目を背けてはいけない。と。
今にも逃げ出してしまいたくなる私の背を、副長は確かに押し留めてくれていた。
「うっ……ふぐっ……!! ぅぅッ……!!」
途端に涙が堪え切れず溢れ出し、零れてしまった嗚咽を伴ってポタポタと地面を濡らす。
……テミスはもう助からない。
その涙は、いくら心が拒もうとも、頭がそう理解してしまった証で。
「ぅぁ……ぁぁぁ……っ……!! ぁぁ……!!!」
それでも尚。
フリーディアはまるで駄々をこねる子供のように首を左右に振りながら、耐え難い事実を拒み続けた。
倒れ伏したテミスの身体を優に超えるほど広がった血の海。傷を見るまでもない……あれ程の血を失って生き延びられるはずが無い。
けれど仮に、流れ出てしまった血を補えたとて。
あの血みどろの甲冑の下には、これだけの血を流してしまうほどの深い傷が刻まれているのだ。
治らない。
どう足掻いたとて逃げられない現実がフリーディアの中で渦巻き、その心に深々と絶望を刻んでいく。
「嫌……よ……」
震える声で言葉を紡ぐと同時に、フリーディアの脳裏に次々と見たくもない想像が浮かんできてしまう。
それは、きっとこれから来てしまうであろう未来の光景。
テミスのいないファント。
執務室に並べていた筈の大きな机は自分のもの一つしか無くて。いつも先を歩いていた筈のテミスの背は無く、広い通りの道が何処までも続いているかのように思えてしまう。
そんなのは嫌だ。こんなのって無い。
そう何度繰り返しても、溢れてくる涙を止める事はできず、せめてテミスの傍らに寄り添おうとしても、一度膝を付いてしまった脚は動いてくれなかった。
「フリーディア様。お辛いでしょうが……どうか……ッ……!!」
「やめて……」
「今ッ……!!! 今を逃せば……もう……ッ!!」
そんなフリーディアに、絞り出すような声でカルヴァスが言葉を重ねる。
もう時間は無い。
たとえテミスに意識は無くても。この言葉が届かなくても。お別れを言わなくてはいけない。まだ……命があるうちに。
心配しないでって。後は任せてって。それが心から出たものではない、この場限りの薄っぺらな嘘でも。少しでも心残りなく逝けるように。
わかっている。
けれど、その言葉を口にしたら、もしかしたら何処かに残っているかも知れない最後の可能性まで潰えてしまいそうで。
本当はそんな可能性など無い。フリーディアはそう全てを理解しながらも、無二の友にして戦友の死を受け入れる事など到底できなかった。
その時。
「――召喚ッ!!」
「ッ……!!!」
何処か遠くから狂気を帯びた叫び声が響き渡り、涙で歪んだフリーディアの視界に異形の化け物が映った。
突如として現れた化け物たちは、テミスを守るように展開したリョース達を半ば囲うように相対していて。
しかも、ビリビリと肌を焦がすような威圧感は、一体一体が凄まじい強さを秘めている事を物語っていた。
それでも。
フリーディアの視線はまるで縫い留められてしまったかのように、すぐに血の気の無いテミスの顔へと引き戻されてしまった。
こんな私では戦えない。寧ろみんなの足を引っ張ってしまうだけ。私の役目は、ここでテミスを看取る事。
まるで温かな闇の中へと引きずり込まれるかのように、フリーディアの心が沈みかけた時だった。
「いつまで……そうしているつもりだ? こいつはまだ、欠片たりとも諦めていないというのに。お前はここで投げ出すのか?」
認めたくないと伸ばした手を掴み上げるかの如く、力強い声がフリーディアの頭上から降り注いだ。
その声に思わず顔を上げると、頬に球の汗を流しながら複雑な魔法陣を展開するギルティアが、視線だけをフリーディアへと向けていて。
「見ろ」
「っ……!!!!」
そしてただ一言続けて放たれた言葉に、フリーディアは縋るようにギルティアの視線を追うと、鋭く息を呑んで目を見開く。
そこに在ったのは、力無く地面に投げ出されているテミスの右手。けれどその手は、漆黒の大剣を離す事無く掴み続けていた。
「白翼の騎士よ。所詮、片翼では何もできないか?」
「……!!」
そんなフリーディアを挑発するかの如く、不敵に唇を歪めたギルティアが静かに言葉を紡ぐ。
その言葉に、フリーディアは答えを返す事なく、しっかりと地面を踏みしめて立ち上がったのだった。




