1474話 公私の防衛戦
時間というものは不思議なもので、怠惰に過ごせば過ごす程その進みは遅く感じるが、激務に忙殺されている時は光の如き速さで過ぎ去っていく。
普段の業務をこなしながら、闘技大会へ向けての準備を行う日々は凄まじい速さで過ぎ、ふと気が付けば開催地であるヴァルミンツヘイムへと出発する日になっていた。
「ぁふ……ぁぁ……もう……朝か……」
珍しく静かな朝の宿屋にドタバタと楽し気に響く足音と、窓から差し込んでくる朝日に揺り起こされたテミスは、再び微睡みの中へと戻ろうとする意識を強引に現実へと引き戻しながら、ベッドに横たえていた身体をゆっくりと起こした。
アリーシャの初めての旅行でもある今回の旅に合わせて、出立の日である今日の朝に限り、マーサの宿は宿泊客へ向けて食事の提供のみを行う半ば休日のような体制を取っている。
やはりマーサとて、娘が初めての旅に出るとなれば心配が尽きぬらしく、アリーシャ曰く一昨日の夜は色々と旅の心得なんかを叩き込まれたらしい。
「ま……今回の旅路ほど、危険の伴わん旅はあるまいが……」
そう嘯きながらテミスは皮肉気に頬を歪めると、未練がましく身体の内で暴れ狂う睡魔を追い出すかのように軽く自らの頭を掌で小突く。
叶う事なら、このまま欲望に任せて二度寝を貪りたい所ではあるが、今回の旅ばかりは流石のテミスといえど遅刻できるはずも無かった。
何故なら。
ロンヴァルディアに魔王軍、そしてファントと属する勢力は違えど、同じ町から目的地を同じくして出立するとあって、テミスとフリーディアは闘技大会に出場する面々と赴き、それをルギウス率いる第五軍団の抽出小隊が道中の護衛と案内を担うのだ。
なお、ギルファーからの出場者とテミスが目しているヤヤとシズクは、いちど本国へと戻ってからヴァルミンツヘイムへ向かうらしく、闘技大会の連絡をギルティアから受けてすぐにファントの町を発って行った。
「さて……そろそろかな……?」
テミスは眠気の抜けきらない頭で爾後の予定を確認しながら着替えを済ませると、チラリと自室の扉へ視線を向けて呟きを漏らす。
期待に胸を膨らますアリーシャか、痺れを切らしたフリーディアか、どちらが来るかはわからないが、そろそろけたたましいノックの音が鳴り響くのだろう。
そう思っていたのだが……。
「テミス。お早う、起きているかい? ルギウスだ。すまない、僕としてはこうして直接君の眠る部屋を訪ねるのはまずいのではないか……と思ったのだけれど。フリーディア君もアリーシャちゃんも少し忙しいみたいでね……。って、テミス? ハハ……参ったな、まさか本当にまだ眠っているのか……」
「な……っ……!?」
予想に反して、部屋の戸はトントンと控えめかつ常識的な力加減で叩かれ、部屋の外からは戸惑いの混じった柔らかな男の声が響いてくる。
そんな想定外の来客に、テミスは半ば反射的に思考と身体を凍り付かせると、油の切れた機械人形のようにぎこちない動きで首を回して、背後に広がる自室へと視線を向けた。
そこには、起きた際に跳ね飛ばしたままの掛布団が放置されているベッドや、ベッドサイドの机の上に放置された寝間着など、これでもかと言わんほどに生々しい生活感の溢れる光景が広がっていて。
「テミス? 起きてくれないかい? テミスっ?」
「ッ……!!」
軽いノックの音と共に再び響くルギウスの声に我を取り戻したテミスは、咄嗟に息を細めて自らの気配を殺した。
家族の一員であるアリーシャや、止めろと言っても聞く耳を持たないフリーディアならば仕方は無いと諦めは付く。
だが、共に肩を並べて戦い、酒を酌み交わす仲であるとはいえ、ルギウスは比較的常識的な思考を持ち合わせている数少ない友人だ。
こんな惨状とも言うべき部屋を目撃した暁には、きっと困ったような微笑みを浮かべ、何も語る事無く目を逸らすのだろう。
それはとても紳士的であり、彼らしい行動だとは思うが、やられる方からしてみればその慈悲が逆に生殺しに等しい屈辱に感じてしまう。
かくなるうえは。
用事があって訪ねてきたであろうルギウスには申し訳無いが、ここは一度やり過ごしてから時間を置いて部屋を出るとしよう。
多少の罪悪感を覚えながらもそう決めたテミスは、足音を立てぬように細心の注意を払いながらベッドへと踵を返し、音も無くゆっくりと腰を下ろした。
しかしその直後。
「う~ん……。本当に困った……。テミス? テミス……!? 頼むから起きてはくれないかい?」
「…………」
「…………ダメ……か。ハァ……仕方が無い、君は怒るかもしれないけれど、その時は甘んじて受け入れよう」
「っ~~~~!?」
物憂げな溜息と共に、テミスの耳に到底信じがたい音が響いてくる。
その微かな金属音は明らかに、この部屋の扉に鍵を差し入れる音で。ベッドに腰を掛けて息を殺していたテミスは、驚いた猫の如くビクリと肩を大きく跳ねさせて跳びあがると、脱兎の如く扉へと突進した。
同時に、カチャリと軽い音を立てて部屋の鍵が開かれるが、テミスは扉が開かれる寸前にドアノブを掴むと、自らの身体を押し当てて扉が開かれるのを防ぐ。
「んっ……? 今の音……」
「ルギウスッ!! お、驚かせるなッ! すぐに降りていくから、下で少し待っていてくれッ!!」
「っ……! あぁ、わかった。いやぁ……起きてくれて助かったよ。実は女将さんから君の部屋の鍵を渡されてしまってね、きっとまだ寝ているだろうから起こしてやってくれと託されてしまったんだよ」
「世話をかけてすまないッ! 鍵はマーサさん……女将に返しておいてくれッ!!」
「勿論さ。ただ、今鍵を開けてしまったから、それだけは注意して欲しい。じゃあ、僕は下で待っているよ」
「…………。ふぅ……朝からなんと心臓に悪い……。お陰で、これ以上ないほどしっかりと目は醒めたがな……」
そのまま扉を挟んで、ルギウスはテミスと言葉を交わしたあと、ゆっくりとした足取りで部屋の前から去っていった。
ルギウスが立ち去った足音を確認した後。
テミスは扉に背を預けて、ズルズルとその場に崩れ落ちるように腰を落とすと、頬を伝う冷や汗を拭いながら嘯いたのだった。




