1418話 暁の惨状
翌朝。
微かに空が白みはじめ、遠くから早起きな鳥のさえずりが聞こえ始めた頃。
テミスは己が胸へと当てていた手を静かに下ろし、薄闇に包まれた部屋の中で音も無く立ち上がった。
「よし。予定より少々早いな。傷は完璧に治った訳だが……フム……」
立ち上がったテミスは、衣服を身に着けるべく周囲へと視線を凝らすが、目に留まったのはこの部屋を訪れた時に自らが着ていた物だけで。
しかもその服は、前面をはだけるように切り裂かれた上に、テミスの血を吸って固まり、とても再び着る事ができるような代物ではなくなっていた。
「……参ったな。上半身だけとはいえ、流石に裸のままうろつく訳にもいかん」
マーサの宿屋に戻れば、替えの服などいくらでもある。
しかし、今のテミスには家へと帰るための服が無く、困り果てたテミスはポリポリと頬を掻きながら、自らの足元で静かな寝息を立てるフリーディアへと視線を向けた。
「かといって、こいつを起こすのもなぁ……」
昨晩。
フリーディアは治療を手伝うと息まいていたものの、実際にできる事など集中力を欠かない程度に気を紛らわせるくらいしか無く、見学もそこそこに寝入ってしまった。
尤も、獣王の館で酒を飲んでいたうえに戦闘をこなし、テミスをここまで運んできた疲れも鑑みれば責められるはずも無く、故に今テミスもこうして、フリーディアを起こす事をためらっているのだ。
「むぅ……。執務室まで辿り着ければ甲冑があるが……はて、替えの制服は置いてあっただろうか……?」
テミスは早々に、すやすやと寝息を立てるフリーディアを叩き起こすという無慈悲な案を却下すると、次なる方策へと考えを巡らせ始める。
この詰め所では、訓練で汗を流す事もあるし、幾つか服が置いてあったのは間違いない。
だが、問題はその記憶がかなり前のもので。備蓄分を使い切ってしまっている可能性は少なくないという点だ。
仮に、人目を忍んでこの物置から執務室へと辿り着く事ができたとしても、そこに服が存在しなければ全ては終わり。本当に地肌に甲冑を着こんで家路へと着くか、再び危険を冒してこの部屋へ逃げ帰ってくるかの二択を迫られる羽目になる。
「っ……!! かくなるうえはッ……!!」
進退窮まったテミスの思考の片隅に閃きが迸り、その視線が再び眠りこけているフリーディアへと向けられる。
そうだ。服ならばここにあるではないか。
こいつは今、心地の良い夢の中だ。昨夜はあれ程の事があったのだから、多少つついた位では目を覚まさないだろう。
それにこの部屋ならば滅多に人が来る事は無い。つまり、ここで眠りこけている限り、少し上着を借りたとて問題は無い筈だ。
「っ……!! ハッ……!?」
ドクン……ドクン……。と。
喧しく鳴り響く心臓の音を聞きながら、テミスは何かに導かれるかのように、フラフラとした足取りで床の上で眠るフリーディアへと近付いていく。
だが、フリーディアの傍らまであと数歩と言う所で、テミスは赤く染まった彼女の肩口に目を留めると、ビクリと肩を跳ねさせて足を止めた。
……何を考えているんだ私は。
あの肩口から覗いている血は、間違いなく私を背負った時に付いたものだろう。
確かに今、私は着るものに困っている。
だが、フリーディアはロクに動けぬ私を背負い、無理を通してここまで運んできてくれたのだぞ。
「ッ……!!! あり得ん!! 仮にも恩人たる者の服を剥いてまで、守るべき恥などあるかッ!!」
まるで頬を張られたかのような衝撃に、テミスは揺れていた心を決めると、決然と胸を張って部屋の戸を開けた。
恩を棄て、義を穢すくらいならばいっそ、ここは賭けに出る。万に一つ、執務室に替えの服が無かったら、この部屋まで戻ってきて大人しくフリーディアが目を覚ますのを待とう。
そう……思っていたのだが……。
「あぁ~……」
扉を開いた先には、人気のない廊下の先からずっとこの部屋まで血の跡が続いており、目も当てられない惨状が広がっていた。
これにはテミスもただ力無く声を漏らすほかなく、胸の中で猛々しく燃え上がっていた決意の炎も一瞬のうちに消え失せてしまった。
「……こ~れは無理だ。……すまんっ! フリーディア……!! おいっ! フリーディア起きろッ! 起きてくれッ!!」
テミスはひくひくと痙攣したような苦笑いを浮かべて開いた部屋の扉を閉めると、クルリとフリーディアを振り返って詫びを入れる。
そして、テミスは焦りを帯びた表情を浮かべて眠るフリーディアの傍らへと駆け寄ると、目覚めさせるべく早口でその名を呼びながら、身体を揺さぶり始めたのだった。




