1410話 痛みの種類
脚に全霊を込めて地面を蹴り、必死の思いで前へと進む。
呼吸は千々に乱れ、荒々しく繰り返される息には時折、精度の悪いラジオから漏れ出る雑音のような音と共に、真っ赤な血が飛沫となって零れ落ちた。
「コフッ……ゴホッ……ゼェ……ヒュー……ッ……!!」
辛うじて人が一人通る事ができる程度の細い路地へと身を滑り込ませたテミスは、傍らの建物の壁へと背を預け、小さく咳き込みながら息を整える。
絶体絶命の窮地。
自らの勝利を確信し、嗜虐の笑みを浮かべて迫るフリーディアの姿をした襲撃者を前に、テミスが選んだのはこれ以上ない程の遁走だった。
剣を手に迫り来る敵に背を向け、脱兎の如く逃げ惑う。
当然。フリーディアの姿をした襲撃者は反撃を恐れる事無く、自らの思うようにのびのびと攻撃を仕掛けてくる。
そんな剣戟を、手負いのテミスが躱しきれるはずも無く、時には腕に、足に、腹に攻撃を喰らいながらも、テミスは一切の反撃をする事なく、まるで猛獣に襲われた草食動物のように、ただひたすらに夜の町を逃げ回っていた。
「フン……やはり、奴はフリーディアでは無いな……」
壁に背を預けたまま通りを覗き込んで様子を窺いながら、テミスは静かな声でひとりごちる。
万に一つ、フリーディアの奴がとんでもなく酒癖が悪く、酔いが回ると人格が変貌してしまうが故に、自制していたという事も考えたが、今や確実にその可能性は潰えたとテミスは確信していた。
それは、今もこうしてテミスが逃げられている事実が何よりの証明で。
幾ら嬲り殺さんとしているとはいえ、奴は初撃でこちらの片肺を貫いているのだ。フリーディアの腕前であれば、とうに殺されていても不思議ではないし、最低でも四肢を刻まれ、芋虫が如く地を這っているはずだ。
「クク……馬鹿な奴だ……ゴホッ……。奇襲の成功に自惚れず一撃で仕留めていれば、逃がす事など無かったものを……」
街路に人気がない事を確認したテミスが、血の付いた唇を吊り上げてクスリと微笑んだ時だった。
「あらそう? 私はそうは思わないけれど?」
「――っ!!!?」
突如。
テミスが意識を向けていた街路とは真逆。
細い路地が奥へと続いている方向から不敵な声が響くと同時に、フリーディアの姿をした襲撃者が姿を現すと、ゆらりと手を伸ばしてテミスの身体を背を預けていた壁へと押し付けた。
そして、テミスを抑え付けた手とは逆の手に握られていた剣が閃き、テミスの太腿を深々と串刺しにする。
「がッ……ぐああああぁぁぁぁぁぁッッ……!?!?」
「こんな所で隠れた気になって……本当に馬鹿ね……。いったい何度アンタを斬ったと思っているのさ。幾ら逃げ隠れしようとも、点々と続く血が簡単に場所を教えてくれる」
「ホント……がっかりよ。アンタがこの程度の奴だったなんて。殺した所で誇れもしないじゃない……」
脚を貫かれたテミスは、フリーディアの姿をした襲撃者に突き飛ばされるがままに街路へと転がり出ると、苦悶の叫びを上げて石畳の上に蹲った。
だが、フリーディアの姿をした襲撃者はそんなテミスを酷く冷めた目で見下ろすと、溜息と共にコツリ、コツリと足音を響かせながら、ゆっくりと街路へ歩み出てくる。
「あの方があそこまで警戒される理由が分からないわ? 可愛く泣き叫んでくれるならまだ愉しめたのに……。その顔もそろそろ飽きてきたのよねぇ……」
「ッ……!!」
そう嘯きながら、フリーディアの姿をした襲撃者はテミスの近くまで歩み寄ると、歯を食いしばって自らを睨み付けるテミスの肩を蹴り飛ばした。
しかし、傷を負った身に更に鞭を打たれて尚、テミスが悲鳴をあげる事は無く、固く閉ざされた口はぎしりと固く歯を食いしばり、瞳には怒りを燃やして敵を睨み上げている。
「う~ん……そうだ! 痛いのを我慢するのは得意みたいだし、少ぉし趣向を変えてみようかしら?」
そんなテミスに、フリーディアの姿をした襲撃者はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら歩み寄り、抑え込むようにして足で肩を踏み付けた。
そして、喉を鳴らして考える素振りを見せた後、パチリと指を鳴らしてからゆらりと剣の切っ先をテミスの腹へと向ける。
「くっ……!?」
この女は、まだ私を嬲るつもりでいるらしい。それに、何か良からぬ事を思い付いたようだが、命さえ繋ぐ事ができれば、この窮地を一気に覆す手段はある……ッ!!
再び迫る苦痛の予感に、テミスは固く食いしばった歯にさらに力を込めながら、この窮地を脱するべく必死で思考を回転させた。
だが、テミスの想定していたような激痛が襲い来る事は無く、代わりにプツリ……と軽い衝撃と共に涼しさのような奇妙な感覚がテミスの肌を走る。
違和感に視線を向けてみれば、下腹の辺りへと向けられた剣の切っ先は徐々に胸元へ向かって上がってきており、刃によって切り裂かれた衣服が左右にはだけていた。
「ッ……!! まさか貴様ッ……!!」
「くふふっ……流石に気付いたかしら? 痛くしても音を上げないなら、恥ずかしいのはどうかなって……ね?」
「ハッ……下衆め。いよいよお前を視界に収めておくのも不快になってきたわッ!」
「はいはい。喚かないの。あんまり騒ぐと傷口、抉るわよ?」
腹から胸へと、ゆっくり上がってくる剣を忌々しげに眺めながら、テミスはフリーディアとは似ても似つかぬ偽物の思考に、皮肉気な笑みを浮かべて吐き捨ててみせる。
しかし、フリーディアの姿をした襲撃者はまるで子供をあやすかのような口調で、テミスの言葉を受け流すと、ゆらりと剣先を揺らして胸の傷へと浅く刺し入れた。
「ぐぁッ……!! ッ……チィッ……!!」
これは流石にまずい……。たとえこの場で裸に剥かれたとて、こいつを殺す事を諦める理由にはならない。
だが、たとえこいつを仕留めたとて、全裸で戦ったなどという醜聞は、確実にこの町における私の人としての尊厳を破壊するだろう。
そう、テミスの内心が一気に危機感と焦燥で満たされた時。
「させないわッ!!!」
「――ッ!!?」
気迫の籠った鋭い叫びが響いたかと思うと、ひと際甲高い金属音が響き渡り、テミスを踏み付けにしていたフリーディアの姿をした襲撃者を弾き飛ばしたのだった。




