1402話 夕暮れの語らい
「くぁ……ぁぁ……。これでようやくひと段落といった所か」
陽も傾き、煌々と町を照らし出していたその輝きも、柔らかく鮮やかなオレンジ色の光へと変わった頃。
自らが担当した書類仕事を終えたテミスは、椅子の背もたれを使って大きく体を伸ばすと、誰に語り掛ける訳でも無く独り言を漏らした。
その隣では、真剣な表情を浮かべたフリーディアが、テミスの片付けた書類と資料とを交互に睨み付けている。
だが、フリーディアは相当意識を集中しているのか、テミスの言葉は届かなかったようで、口の中でブツブツと何やら呟きながら、視線を忙しく彷徨わせていた。
「…………。フッ……」
そんなフリーディアを眺めて数秒、テミスは静かに目を瞬かせると、ふと何かを思い付いたかのようにニンマリと笑みを浮かべ、音も無く席を立った。
テミスが仕事を取り上げた後、フリーディアはその一件が相当に悔しかったらしく、残りの雑務を終えた彼女たっての強い希望で、執務の見学をさせていたのだ。
しかし、人情家なフリーディアにとって、どうやら狡猾な商人共の美麗字句や二枚舌は相当な天敵らしく、快刀乱麻の勢いで書類を捌いて行くテミスの仕事を眺めながら、ああして唸り声をあげている。
「ま……せいぜい頑張ってくれ。お前に任せられるようになれば、こうしてマグヌス達が休みの日でも、私は楽をできる」
未だ書類と奮闘するフリーディアを遠目に眺めながら、テミスはニンマリと怪し気な笑みを浮かべてそう呟くと、慣れた手つきで部屋の片隅に用意された繰り、コポコポと小さな音を立てて珈琲の良い香りを纏った温かな湯気をあげた。
「よし……っと……。そら、フリーディア。あまり根を詰めてもいい事は無いぞ?」
「っ……!! テミス……ありがとう」
そして、淹れた珈琲を二つのマグカップへと注いだテミスは自らの席へと戻ると、まだそこで唸り続けているフリーディアの眼前へと、片方をのカップを差し出して声を掛ける。
瞬間。
フリーディアはピクリと肩を跳ねさせて書類から視線を上げると、少し驚いたような表情を浮かべた後、にっこりと笑顔を浮かべてテミスから湯気を吐き出すカップを受け取った。
「珍しいわね? 貴女が私にこんな気遣いをしてくれるなんて?」
「部下の努力は応援してやらんとな。特にこういった仕事は、たとえお前が敵に回ったとしても無駄にはならん」
「クス……またそんなこと言って。そんなに心配しなくても大丈夫よ。貴女が今の貴女である限り、私は共に征くと決めたのだから。それに……」
「んん……?」
フリーディアは受け取ったカップに静かに口を付けて珈琲を飲み下すと、笑みを少し意地の悪いものへと変えてテミスへと問いかける。
テミスはそんなフリーディアの問いに鼻を鳴らして答えるが、フリーディアが慈愛に溢れた聖母のような微笑みを崩す事は無く言葉を続けた。
「こうしてテミスの側に居た方が、貴女が何かをやらかしそうになった時に止めやすいわ」
「ハッ……!! そんな事をしてくれと頼んだ覚えは無いがな。寧ろ、お前が色々と引っ掻き回してくれるお陰でこちらは暇が無いわッ!」
「持ちつ持たれつよ。一緒にこの町を守ると誓った仲じゃない。私の至らない所を貴女が支えてくれるかわりに、私が貴女の足りないところを補うわ」
「寝言は寝て言え。お前のような楽天家に補われる所などあるものか」
「あら……そう? この間パーティを組んだクルヤ達を疑って、一方的に敵視していた人が良く言うわね?」
「それが寝言だと言っているんだ。私はむしろ、作戦行動中に我々をやけに分断させたがる連中に疑いを強めたがな。それに、奴等がまだこの町を発ったという報せは無い。気を抜くには早すぎる」
「もぅ……またそんなこと言って……!!」
人心地を付けながら、テミスとフリーディアがいつも通りの口論じみた軽口の応酬を始めた時だった。
部屋の外から重たい足音が響いてきたかと思うと、執務室の扉が開いて腕いっぱいの紙袋を抱えたマグヌスが姿を現す。
無論。休暇を与えているとはいえ、彼の仕事場でもあるこの執務室にマグヌスが姿を現す事は何らおかしな事ではないのだが、義に厚く礼節を欠かさない彼がノックも無しに入室してくるのは酷く珍しかった。
「むっ……!? テミス様ッ……!? お二人共もう戻られていたとは……大変な失礼をいたしました」
「……? 何を言っている? 私もフリーディアも、今日は一日中この部屋で書類仕事と格闘していたが?」
「えぇっ……!? それは本当ですかッ……!? まさか……ご冗談をッ! 数刻ほど前、詰め所から少し通りに沿って中心街へと向かった所にある雑貨屋の近くに居らっしゃったではありませんか」
「……本当よ? 二人共、少し席を外す事はあっても数分程度……この建物から出てはいない筈だわ?」
「なっ……!? なんですとッ……!? むむぅッ……!! お二方にもお見せしたかったですぞ、まるで鏡映しかのようでして」
「へぇ……気になるわ。そんなにそっくりなら一度会ってみたいわね」
「…………。フッ……そうだな。マグヌスが見紛う程であるならば、私の身代わりとして雇いたいくらいだ」
執務室の中に二人の姿を確認すると、マグヌスは驚きを露わにして狼狽えるが、即座に居住まいを正してペコリと頭を下げた。
そして、マグヌスの口からテミス達へと語られたのは、二人と瓜二つなほどそっくりな少女たちの話だった。
そんなマグヌスに、フリーディアが興味深げに息を吐きながらテミスへと同意を求めるように視線を向ける。すると、テミスは何かを考えこむかのように顎へ当てていた手を下して、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべて言葉を返したのだった。




