1400話 あの時とは違う今
――懐かしい感覚だ。と。
テミスはまるで砂を噛むような思いを抱きながら、胸の中で呼び覚まされたいつかの記憶に思いを馳せた。
かつて。
私がまだ俺であった頃。
誰かを助けたい。傍若無人に振舞う悪を挫き、弱きを守る正義の味方になるべく、人生を選んだ。
だが、現実にそんな都合のいいヒーローが存在する余地などあるはずも無く。
俺の抱いていた青臭い夢は早々に打ち砕かれ、ただの事後処理役人として辛酸を舐め続けていた。
「スゥ……」
そう。この味はあの時と全く同じもの。
欲に溺れた悪漢が無辜の女性を襲ったあの時。
俺たちが駆け付けた頃には全てが手遅れで。心身に深い傷を負う事になってしまった彼女の母親に、あなた達がしっかりしていないから娘がこんな目に遭ったのだと酷く叱責されたものだ。
孫の学費の為にコツコツと溜めていた金を、プレゼントするために銀行から引き出した老婆が、遊ぶ金欲しさの若者に鞄ごと金をひったくられたあの時。
俺たちにできたのは被害の調書を取る事くらいで。老婆が奪われた金を取り返してやることも、金を奪った若者を見つけ出して誅する事もできなかった。
「よもや……こんな形で思い出す事になるとはな……」
漆黒の甲冑に覆われた掌へと視線を落としながら、テミスは苦々し気に呟きを漏らす。
被害に遭った者を可哀そうだと思い、義憤に駆られるのは人として正常な心の動きだろう。
今、この胸の中で疼いている痛みは、かつての自分が抱いていた夢の残滓だ。
事実、仲間を喪った彼等を哀れにこそ思えど、彼等を救ってやろうなどという気持ちは毛頭ない。
それでも。
他者を圧倒することの出来る力を手に入れた今で尚、誰かを救うには足りていないという現実に変わりは無かった。
「…………」
口を閉ざしたテミスは、自らの心が赴くままに鬱蒼と生い茂る木々の葉を見上げた。
本当ならば、胸の空くような青空でも眺めて、気持ちを切り替えたいものだが……。
思い出したついでだ……ファントの町に戻ったら、イズルの店にラーメンでも食べに行くか……。
口元にクスリと皮肉気な笑みを浮かべ、テミスがそう胸の中で嘯いた時だった。
「テミスッ……!!」
テミスの名を呼ぶ声と共に、背後からフリーディアが駆け寄ってきた。
その表情は悲し気に曇っており、整った顔立ちに似合わぬ深い皺を眉根に刻んでいる。
「ッ……!! チッ……!!」
そんなフリーディアの姿に何故か、一瞬だけ過去の自分がちらついて見えて。
小さく息を呑んだテミスは、舌打ちと共に下らない幻想を振り払うと、即座に彼女が宣って来るであろう絵空事を叩き潰す策を巡らせ始めた。
どうせフリーディアの事だ。あの連中に感化されて、職を用意してやろうだの、保証をしてやろうだのと眠たい事を言い出すに決まっている。
「何だ……? 見ての通り、今はすこぶる気分が悪くてな。お前が出してきそうな提案ならば、聞くまでも無く却下してやれる自信があるが?」
「っ……? ふふっ……何よそれ。私はただ、貴女が少し心配だったから様子を見に来ただけよ」
だが、テミスの予測に反して、フリーディアは穏やかに笑って肩を竦めながら、テミスの隣で足を止めて並び立った。
しかも、その口から飛び出たのは、あろうことかテミス自身を慮っているかのような発言で。
「心配だと……? お前が……? 私を……?」
「うん。だってさっき、あの冒険者の人たちに責められていた時。テミス、隠していたけれど、凄く辛そうな顔してたから」
「ッ……!? …………。ハッ……見間違いだろう。もしくはお前の勘違いだ。あまりにもひどい難癖に、斬り捨ててやりたいという衝動に抗っていたに過ぎん」
その予想外過ぎるフリーディアの発言に、テミスは一瞬だけ狼狽えたが、すぐに皮肉気な笑みを浮かべて吐き捨てるように嘯いてみせた。
何故見抜かれた……? 表情には出していなかったはずだ。少なくとも、今までのフリーディアならばこの程度の機微に気付くはずがなかったのに……!!
しかし、表面上は辛うじて取り繕ってはいたものの、テミスの内心での動揺はすさまじく、皮肉気に釣り上げた唇の端が僅かに震えていた。
「そう……貴女がそう言うのなら、そういう事にしておくわ。でも忘れないで? 今の私は貴女の付き人なのだから。愚痴くらいなら……聞いてあげるわ」
「ッ…………。フッ……酔狂な奴だ。まぁいい、これ以上モタモタしている暇は無い。さっさと湖に残った連中と合流してファントヘ帰投するぞ」
そんなテミスに、フリーディアが静かな笑みを浮かべて穏やかに言葉を重ねる。
すると、テミスは再び僅かに目を見開いて驚きの表情を浮かべた後、背筋をピンと伸ばして力強く言葉を返したのだった。




