1395話 闇より深き絶望の底で
「フン……来るかッ……!?」
まるで戦いの火ぶたを切るかの如く、サーベルファングがひと際大きな声で嘶くと、相対するテミスは不敵な笑みを浮かべて大剣を地面へと盾の如く突き立てた。
ヒトの枠を超えた怪力を誇るテミスと言えども、流石に小山のような巨体を誇るサーベルファングの突進をまともに受ければ、圧し負けるのは目に見えている。
故に。
地面に大剣を杭のように突き立てて固定し、大地の力を借りて受け止めるのだ。
「ブルゥグアアアアアアアァァァァッッ!!!!」
「ォォォォオオオオッッッ!!!」
一頭と一人の咆哮が重なり、裂帛の気合が混じり合うと共に、ゴィィィィィィィンッッッ!! と、巨大な鐘を衝いたかのような音が周囲へと響き渡る。
直後。
イメルダの眼前には、彼女の構えた盾の寸前まで圧し込まれながらも、サーベルファングの猛進を受け切ったテミスが、不敵な笑みを巨獣へと向けていた。
そんな戦場の傍ら。
「アレックスッ!!! 嫌ッ!! 目を開けてッ!! 眠っちゃ駄目ッッ!! お願いだからッ!!」
「ッ……!!! 落ち着けッ! イールッ!! そんなに暴れては君の傷に障るッ……グゥッ……!!」
絶望に塗れた金切り声が響き渡る。
大きな荷物を背負った薬師らしき女が、半狂乱に陥りながら、死に体の剣士に縋り付いて叫びを上げていた。
その眼前では、これまで彼女たちと共に飯を喰らい、共に笑い合い、共に背を預け合った大切な仲間が、今にも途絶えてしまいそうな程に弱々しい呼吸を繰り返している。
だが薬師らしき女とて、その左腕は力無くだらりと垂れさがっており、一見しただけでも傷が深い事が見て取れた。
その傍らでは、矢筒を背負った若い男が、剣士の身体へすがろうとする薬師らしき女を必死の形相で留めている。
「傷……そう……そうよ!! 私が治さなきゃッ!! ウンガール! 早く貴方も手伝って!! ッ……!!! あぁ……ああああああッ……!! なんで……なんで開かないのよぉッッ!!!!」
「っ~~~~!!!!!」
ウンガールと呼ばれた男の言葉に、イールはビクリと身体を跳ねさせた後、背負っていた薬箱を地面へと下し、無事な右手で開けようと藻掻いた。
だが、彼女の背負っていた薬箱は見るも無残に歪み砕けており、その機能がとうに失われている事は誰が見ても一目で解る。
それでも尚。諦め切れない希望に縋るかのように、折れた左手をも用いて必死で薬箱を拓こうと足掻くイールの痛々しい姿に、ウンガールはやり切れない思いで目を背けた。
――アレックスはもう助からないだろう。
薬師ではない彼であっても、かけがえのない仲間であり、大切な親友でもある剣士へと着実に迫り来る死を理解できた。
あんな化け物の牙で腹を貫かれたのだ。ただで済むはずがない。
ここまで共に、戦い続けてこれただけでも奇跡に等しい。
けれど……。
「ウォォォォオオッッッ!!! 貸せェッ!!! 俺がッ!! 俺が開けるゥッ!! イールは止血の準備をしろォ!!!」
堪えようのない思いが胸の奥から溢れ出した瞬間。
ウンガールは血を吐くような咆哮と共にイールを突き飛ばし、壊れた薬箱へむしゃぶりつくと、全力を込めて戸を開こうと力を込めた。
「きゃ――ゥッ……!? ッ~~~!!!! わかっだッァ!!!」
そのはずみで、小柄なイールの身体は横たわるアレックスの隣へと投げ出され、折れた左腕を身体の下敷きにするように着地する。
だが、イールは全身を駆け抜ける激痛にバタバタと足を宙で藻掻かせたものの、悲鳴を喉の奥へと押し殺して叫びを上げると、即座に飛び起きてアレックスの身体へと視線を向けた。
しかし……。
「イール……俺の事は……もう良い……!! 早く……逃げ……るんだ……ッ!!」
傍らで騒ぐ仲間達の声に意識を取り戻したのか、薄っすらと瞼を空けたアレックスが、弱々しい声でイールへと語り掛ける。
「嫌よッ!! 馬鹿な事を言わないでッ!! アレックスの事は私が絶対に助けてみせるからぁッ!!!」
「ありがと……な……。っ……。ウンガール……そこに……居るんだ……ろ……?」
「ッ……!!!! 応ともッ!! 待ってろッッ!! 今この薬箱を開けて手当てをしてやるからッッ……!! ふンッ……!!! ぎぎィ……ッッッ!!!」
「イールを……頼む……ぜ……。クラートの奴……には……ガハッ……!! ゴボッ……!!」
「アレックスッ!!!」
アレックスの言葉に構わず、イールは涙を流しながら流れ出る血を押し留めるようと、辛うじて動く右手を軽鎧に穿たれた穴へとあてがう。
そんなイールに、アレックスは地面に投げ出した腕をピクリとだけ微かに動かした後、傍らで奮闘するもう一人の仲間へと語り掛けると、紡ぎかけた言葉を詰まらせて激しく咳き込んだ。
「アレックスッ!! おいッ!! 死ぬなッ!! しっかりしろッ!!」
友の異変に、ウンガールはたまらず薬箱を放り出すと、叫びながらアレックスの傍らに駆け寄って膝を付く。
その瞳には、既に間近にまで迫った絶望に対する恐怖と狼狽が満ち溢れていた。
「ッ……!!!」
「クルヤ……これはッ……!?」
そこへクルヤとヴァルナは辿り着くなり、鋭く息を呑んだ。
先程から悲鳴や叫びは聞こえていたし、遠目ながらも状況はある程度把握している。
けれど、こうも掛け値なしの絶望を目の当たりにしては、かける言葉すら失って絶句する事しかできなかった。
「…………。君たち、急いでこっちへ。アレは僕たちの仲間が食い止めていますから」
「っ……!! 救援ッ……!! お願い!!! アレックスを助けてッ!!! お願いッ!!」
「助けッ……!? 頼むッ!!! 俺達は良い!! アレックスをッ!!」
しばらくの沈黙の後、横たわる剣士の隣に膝を付く二人の背中へ、クルヤが静かな声で呼びかけた。
すると、二人は弾かれたように立ち上がると、クルヤの足元に縋って泣きながら懇願をし始める。
だが、救いを乞われたクルヤがチラリと視線を向けた先では、既に物言わぬ骸と化した剣士の遺体が一つ、痛々しく転がっているだけで。
「ヴァルナ……。二人を連れて先に。彼は僕が」
「……。了解した。さ……彼はクルヤに任せてこちらへ避難を。ここに居ては巻き込まれます」
クルヤは悲し気に目を細めてから、傍らに立つヴァルナへそう告げると、半ば強引にイメルダ達の方へと連れていかれる二人の喚き声を背に聞きながら、静かにアレックスの遺体へと歩み寄ったのだった。




