127話 望郷と焦燥
「っ――!!」
テミスの背筋を、焼けつくような焦りが貫いた。
馬鹿な。あり得ない。イゼルにはまだ領主も将校も来ていない事は知っている。
――ならば、何処から?
様々な可能性がテミスの脳内を駆け抜け、鈍い痺れとなってテミスの頭を焦がす。
「――来てっ!」
「っ!? お、おいっ!?」
「いいからっ!」
突如。目を見開いて凍り付いたテミスの腕を、フリーディアが掴んで強引に引き寄せる。そしてそのまま来た道を引き返し、半ばテミスを引き摺るように町の中へと踵を返し始めた。
「どう言うつもりだフリーディアッ!? 私は直ぐに――」
「黙って! 絶対に後悔はさせないから!」
フリーディアの手を払おうともがきながら抗議するテミスの言葉を、いつになく鋭いフリーディアの声が叩き切る。それに随伴していたミュルクが彼女の側へと駆け寄ると、何かしらを呟いてテミスの方へと視線を泳がせた。
「リック。私のわがままを聞いてくれる?」
「っ! も、勿論です!」
ふんわりとした笑みを浮かべて語り掛けたフリーディアに、少しだけ頬を染めたミュルクが姿勢を正す。その一方で、テミスの頭の中にはマグヌスの声が響いていた。
「敵の軍勢はファント南部の平原に陣を構えた模様。現在確認できているだけでも、5個師団ほどの戦力かと」
「ごっ――!?」
続くマグヌスの報告に、テミスは危うく声を漏らしそうになった。
5個師団など、たかだか前線の町を攻める量の戦力ではない。あのラズールでの戦いでさえ、全て合わせても敵はせいぜい1個師団程度だったのだ。とてもではないが、十三軍団単体で相手できる戦力ではない。
「現在、ルギウス殿の指揮の元、衛兵部隊と連携して交戦中。至急第五軍団も援軍に来ていただけるようです!」
もう完全にフリーディアに身を任せて通信に集中するテミスは、彼女に手を引かれる廃人のような様態を晒しながら町を歩んでいた。
「そして、信じがたい情報なのですが……」
先遣部隊との小競り合いが発生しただけで未だ本格的な戦闘には至っていない事。ケンシンからの報せのお陰で、不意打ちを食らう事は避けられた事など、次々と報告を告げた後、マグヌスは分かりやすく口籠った。
「何だ?」
テミスはフリーディア達に聞かれないように声を落とすと、呟くような小声で先を急かした。最悪も最低な状況だと言うのに、これ以上悪い報せがあるのならば是非聞かせて貰いたいものだ。
しかし、テミスのやけくそにも似た心境は、図らずとも叶えられてしまうのであった。
「信じられない話ですが……敵部隊の中に魔族が確認されました……」
「はぁッ――? っ――ゴホッ! ゲホッ!!」
あまりにも明後日の方向へと飛んだ報告に、テミスは耐え切れずに声を漏らした。
それこそあり得ない話だ。魔族と人間は互いに憎み合うからこそ、こうして戦争を繰り広げている。それが手に手を取り合ってファントに攻め入る理由などある筈が無いのだ。
「……ちょっと! せめて声はあげないで。不自然よ!」
「っ……すまん」
手を引くフリーディアが小声で釘を刺すと、我に返ったテミスは小さく頭を下げて謝罪する。考えてみれば、白翼騎士団は対魔族戦闘のエキスパートなのだ。彼女達からすれば、通信術式を行使しているか否かなんて簡単に分かるはずだ。
そんな事も判断が付かない程、テミスの頭の中は混乱を極めていた。
「と……ともかく、面目次第もございません。処罰も叱責も如何様にでもお受けいたします。ですが……このファントの為、一刻も早くお戻りくださいッ!」
謝罪と共にそう叫んだマグヌスの声が、無念や後悔といった深い負の感情を帯びた。だがその根底には、自らの身よりもファントを守護する覚悟が滲み出ていた。
そのマグヌスの覚悟に触発されたのか、テミスは乱れ切った自らの心が急速に平静を取り戻していくのを感じた。そして薄く笑みを浮かべると、落ち着き払った声で一言だけ告げる。
「……すぐ戻る。必ず持たせろ」
「ハッ! この命に代えてもッ!」
フリーディアに手を引かれて詰め所へと連れ込まれるテミスの頭に、雄々しいマグヌスの誓いが木霊したのだった。