1376話 温かな拳
クルヤたちが店を去った後。マーサの宿屋でそれ以上の騒ぎが起きる事は無く、普段通りのにぎやかさを取り戻して営業を終えた。
だが、平穏で陽気な空気がホールを満たしていたのは、客たちがいた間だけで。
店が看板を閉め、ヤタロウやフリーディアも帰路へと着いた後には、深海の如く重たい空気が満ち満ちていた。
「…………」
「っ……!!!」
「……。ぁ……ぅ……」
鈍重極まる空気の根源は他でもない、ホールの中央で一切の言葉を発する事無く、鬼のような形相で仁王立ちするこの店の主、マーサだろう。
その眼前では、自ら床の上へと正座したテミスが、怯え切った表情を露わに視線を彷徨わせており、そんなテミスの傍らには、暗い表情のアリーシャが静かに身を寄せている。
しかし、いくらアリーシャであっても、憤怒の形相を浮かべるマーサに対して、面と向かってテミスの事を庇う事はできないようで、微かに震える手を密かにその背に添えていた。
「テミス……。何で……私が怒っているか解るかい?」
「っ……!! はい。冒険者たちと騒ぎを起こし、他のお客様に迷惑をかけてしまったからです」
そんな中。
満を持したかの如くゆっくりと口を開いたマーサの言葉に、テミスはごくりと生唾を飲み下すと、必死で声を絞り出して答えを返した。
こんな風に叱られる事なんて、いつ以来であっただろうか。
最後に経験したのは、それすらも忘れてしまうほどに遥か昔の事だったが、これだけは確実に為さねばならないと言えることが一つだけある。
それは、決して言葉を濁したり、自らの心を誤魔化さない事。
言葉を濁してしまえば、それは苦境を逃れる為の嘘として映り、余計に叱られる羽目になる。
だが、相手の怒りを汲み取り、それを収めるために自分の想いを偽れば、関係は必ず歪んでしまう。
だからこそ。テミスは胸の奥から湧き上がる恐怖を抑えながら、真っ直ぐにマーサの目を見返した。
「……そうだね。アンタが割って入らなけりゃ、ここまでの大事にはならなかった。あとは?」
「――っ!? えっ……!?」
しかし、それを理解していながらも。
テミスはマーサが重ねた質問の意図を理解できず、ビクリと身体を跳ねさせて疑問の声を漏らした。
今回の一件。確かにあそこで飛び出して、店の迷惑を顧みる事無くその場でクルヤ達とやり合ったのは得策では無かった。
その他で、マーサが怒るとするなら……。
「ッ……!! っ~~~~!! クルヤ達に、手を上げた事……ですか?」
「あぁ、そうだ。アンタ、怒りに任せて騎士の子を殺そうとしたろ? 私にはアンタの動きなんて速過ぎて見えやしなかったけど、フリーディアの嬢ちゃんが止めてくれたところはきっちりと見ていたよッ!」
「ゥっ……!!!」
最悪だ……。と。
マーサの言葉に、テミスは眩暈のような感覚を覚え、堪え切れずに呻き声を漏らした。
まさか、そこまで見られていたとは。
怒りのままに突っかかってしまった所までならば兎も角、これはどうあがいても言い逃れは出来ない。
食堂で、それも寝起きをする宿屋で人死にが出るなど論外だ。
だというのに私は、あろうことかこの温かな場所に、血濡れた自分を持ち込んでしまった。
「っ……!!!!!」
その事実に気付いただけで、テミスの胸の奥からは、堪え切れない程の熱いものがこみ上げ、今にも目頭を突破せんと押し寄せてくる。
だが、テミスは必死で全身に力を籠めると、固く歯を食いしばって零れそうになる涙を留めた。
だというのに。
「……それだけかい?」
「……!! …………」
「…………はい」
マーサは三度問いを重ねると、静かな瞳でテミスを見下ろした。
無論。テミスにはこれ以上の事は身に覚えなど無く、マーサの問いに言葉を返す事ができずに黙り込む。
しかし、そのせいで訪れた静寂が破られる事は無く、遂に観念したテミスは蚊の鳴くような小さな声で答えた。
刹那。
「このッ……!! 大馬鹿娘がッ!!! 武器を持った冒険者相手に、丸腰で食って掛かる奴があるかいねッ!!! それだけじゃなくて、あんな煽るような真似までしてッ!! アンタがいくら強くたって、斬られてもおかしくなかったんだよッ!!」
これまで溜め込んでいた感情を爆発させるかのように、マーサは声を張り上げると、握り締めた拳をテミスの脳天へ向けて叩き込んだ。
テミスにとって、たとえ不意であったとしても、マーサの一撃を躱すのは容易い事で。
けれど、殺意ではなく愛情が込められた拳を前に、テミスの身体は微動だにする事無く、ゴツンッ!! と派手な音がホールの空気を震わせた。
「ちょ……お母さんッ!!!」
「アリーシャ。アンタは黙ってなッ!! 騒ぎを起こしたのは無茶を言ったあいつ等だってことは、他の連中から嫌というほど聞かされた。アンタがアリーシャを守る為に飛び出したのもわかってる。多少やり方は悪くても、よくやってくれたと感謝してるさッ!! でもねぇッ!!」
「ッ……!!!!」
「っ~~~~!!!! 私ゃ前にも言ったはずだよッ!! もっと自分の事を大切にしなって。アンタがもしあの連中に斬られちまってたら、私は明日からどうすりゃいいんだい!! 冗談じゃないよッ!!」
突如として響いた鈍い音に、アリーシャが小さな悲鳴と共に制止の声を上げるが、マーサは止まる事無く激しくテミスを叱り続ける。
そこには確かに、溢れんばかりの愛が満ち満ちいて。
言葉と共に落ちてくる暖かな涙の飛沫に、ギリギリの所で涙を零す事無く堪えていたテミスの目からも大量の涙が零れ始める。
そして。
「ごめん……なさいッ……!! ごめんなさいッ!!! マーサさん!! アリーシャッ!! ごめんなさいッッ!!!」
テミスはそのまま、まるで本当にただの町娘であるかのように涙を流して謝りながら、傍らのアリーシャと共にマーサの身体に縋り付いて泣き喚いたのだった。




