1375話 悪意の機微
騒ぎの元凶であった冒険者たちを追い出してから数分。
振り上げた拳を叩き込む先を失ったテミスも矛を収め、店は瞬く間に元のにぎやかさを取り戻した。
怒りを呑み込んだテミスの元には、アリーシャを守るべく飛び出した勇ましさや、たとえ丸腰であろうとも武装した高位の冒険者を相手に一歩たりとも退かぬ猛々しさを褒めちぎる客たちが集まっており、当の本人はただたじろぐ事しかできないでいた。
「ふぅ……何とか収まったわね……。やれやれだわ……」
そんな騒がしいながらもどこか暖かな光景を眺めながら、フリーディアは小さくため息を吐くと、傍らの椅子を引いてドサリと腰を下した。
全くもって、とんでもない連中だった……と。フリーディアは緊張とテミスを止めるために激しく揉み合ったせいで疲労した身体を擦りながら、胸の奥でひとりごちる。
いくら高位の冒険者パーティとはいえ、方々に噂を轟かせているテミスの強さを知らない筈は無い。
だというのに彼等は、まるで自分がテミスと同等であるか……否、その気になればテミスなど、どうとでもできるとでも言わんばかりの態度だった。
「……本当の強者か。もしくは恐れを知らない愚か者か……」
「或いは、その両方だろうね」
「っ……!!」
「……どうぞ」
フリーディアが思案と共にそう呟きを漏らすと、ジョッキに入った水を持ったヤタロウが音も無く傍らに歩み寄り、静かな声で言葉を付け足した。
そのあまりの気配の無さに、フリーディアはビクリと肩を跳ねさせるが、ヤタロウの側に控えていたシズクが即座に歩み出ると、まるで詫びるかのようにフリーディアへと一礼をした後、両手に持っていたジョッキの内の片方を差し出す。
「あ……ありがとう……。ヤタロウさんも、こんな事に巻き込んでしまって御免なさい」
なみなみと冷たい水が注がれたジョッキを受け取ると、フリーディアはシズクに礼を言ってからヤタロウへと向き直り、テミスに代わって謝罪をする。
「気にしなくていいよ。僕もとても楽しませて貰った。それに……彼女のあんな苛烈な表情は、二度と見る事はできないと思っていたからね」
「ヤタロウさん……! お心遣い、感謝致します」
「アハハ……頑固だねぇ、君も。そう言う所は誰かさんとそっくりだ」
「っ……!! それはッ――!!」
「――それより。良いのかい? 彼等。このままで」
「……? と、言いますと……?」
数度和やかに言葉を交わすと、ヤタロウは突如として怪し気な微笑みを浮かべると、フリーディアの言葉を遮って意味深に問いかけた。
だが、フリーディアはその問いの意味がまるで解らないかのように小首を傾げると、目をぱちぱちと瞬かせながら問いを返す。
事実。クルヤ達の素性こそ気にかかれど、フリーディアの中では問題は全て解決しており、欠片ほどの心当たりも無いが故に、ヤタロウの問いの意味を理解していなかった。
「プッ……!! あっはっはっは……!! なるほど、彼女が苦労をする訳だ。さてはキミ、さっきの一件が何の遺恨も無く、きれいさっぱりと解決したと思っていやしないかい?」
それを察したヤタロウは、とても可笑しそうに笑い声をあげると、クスクスと喉を鳴らしながらフリーディアに問いを重ねる。
「えっ……? はい……まぁ……。お互いに誤解は解けた訳ですし、最後はあんな別れ方でしたけれど、あの程度の事で遺恨が残るとは……」
「……どうやら、人の悪意に関しては、君よりもテミスの方が随分と聡いみたいだ」
「っ……!? どういう事ですか……? まさかッ……!?」
「さっきはただ、起こってしまった騒動を丸く収めただけさ。この場で戦いになるようなことは、テミスとしても本意ではなかったみたいだからね。考えてもご覧? 確かに互いの誤解は解けたのだろうね。けれど……彼等の要求は何一つとして通っていない」
「待って下さいッ!! 彼等がたったその程度の事で恨みを抱くと仰るのですか!? そんなの何の意味も無い……ただの逆恨みですよっ!」
「そうだね。その通りだ。だけど、去り際の彼等の目を見たかい? 特にクルヤと名乗ったリーダーの男の目。テミスを睨み付けていたけれど、あれは明らかに『敵』へと向ける目だったよ」
ヤタロウは静かな声色でそう断言すると、眼前で狼狽を露にするフリーディアへと穏やかな視線を向けた。
こと『恨み』という感情は、長年その渦中にあったギルファーに身を置いていたヤタロウにとって酷く身近なものだった。
だからこそ、よく理解している。
たとえ、酒の席での些細な言い合いであったとしても、その恨みが積もり積もって殺し合いにまで発展する様を。
言葉を交わす事が無かったが故の断絶。止める者を失った憎しみが暴走した者の末路を。
「そんな……ッ!!」
「他者を赦し、信じる事は確かに素晴らしい事さ。けれど、注意した方が良い。信じた相手が裏切った時、刃を向ける先が君だとは限らないのだから」
「ッ……!!!」
まるで追い打ちをかけるかのように、ヤタロウは絶句するフリーディアへ静かに身を寄せると、チラリと視線で給仕の仕事に戻ったアリーシャを示しながら囁いた。
その忠告に、フリーディアは鋭く息を呑むと、ビクリと肩を振るわせて絶句する。
「……虐めすぎちゃったかな? でも、僕はテミスの盟友だからね。少しでも彼女の負担を減らしてあげたいんだ」
「負……担……」
「…………。さてとっ!! じゃ、そろそろ僕はテミスを助けに行ってこようかな」
「っ……。……!」
そんなフリーディアに、ヤタロウは穏やかな笑顔と共にクルリと身を翻すと、肩を竦めて言葉を重ねた。
そして、僅かな沈黙の後。
パチリと手を叩いて纏った雰囲気を一変させ、騒ぎに居合わせた客たちの輪の中に居るテミスの元へと歩き始めた。
その一部始終を見ていたシズクは、水の入ったジョッキを持ったまま言葉を失うフリーディアに悲し気な視線を向けた後、言葉をかける事無くぺこりとだけ一礼をしてヤタロウの背を追って行ったのだった。




