1370話 剣鬼の尾
境界線は一瞬にして突破され、頭の中で警報が鳴り響く。
そこには、考える暇すら存在せず、身体は感情に従って衝き動かされた。
「ッ……!!!」
「ぁ……!」
「…………」
これはまずい。と。
テミスと席を同じくする仲間達がそう直感した刹那。
彼女たちの傍らを一陣の風が吹き抜けていく。
それは、既に『動いている』証。フリーディアの手が咄嗟に閃くが時は既に遅く、席にうっすらと残っていたテミスの残像を掴んで空を切る。
「この町は融和都市だと聞いている。だが、どうやらその名は偽りらしいな」
「わからないわよ? 実際、町では人間と魔族が混ざって生活をしているように見えたし」
「……なら、悪いのはこの店かしら?」
その間にも。立ち上がった女たちはじりじりとアリーシャに詰め寄りながら、店中に迸る程の気迫を滾らせていた。
それに対するアリーシャは、テミスによる仕込みが多少はあるとはいえ、ただの宿屋の娘に過ぎない。当然ながら、剣や杖を身に帯びた冒険者たちを相手に怯まない筈がなく、恐怖に表情を歪ませて一歩後ずさりする。
無論。事態の急転を察したバニサス達は、女たちの蛮行を止めるべく壁際から駆け出していた。
だが、バニサス達がその一歩目を踏み出した刹那。
「そこまでだ。死にたくなければ出て行け。それとも、バラバラに斬り裂いて町の外に棄ててやろうか?」
突如。
一陣の風を纏ったかの如く、怯えるアリーシャの隣に姿を現したテミスが、女たちを鋭く睨み付けながら、低く静かな声で警告をした。
その身からは、テミスの御しきれなかった禍々しい程に濃密な殺気が僅かに漏れ出ており、店の中に居たテミスの正体を知る者達は、まるで凍り付いてしまったかのように動きを止める。
しかし、今のテミスは彼女の所属を示す制服も、その勇猛さを噂に轟かせる漆黒の大剣も持ち合わせてはいない。
一見しただけでは、ただ町に住んでいる町の娘にしか見えない風体で。
故に、アリーシャに詰め寄っていた女たちは、ただの村娘にしては不遜かつ剛毅に過ぎる言葉に怯むことなく、威圧する標的をテミスと切り替えて鼻白んだ。
「アンタ今の……私達に言った訳?」
「普段ならば好い度胸だと褒めてやるところだが、些か蛮勇が過ぎたな」
「そうやって噛み付くのは構わないけれど、相手は選んだ方が良いわよ? ま、もう遅いけれど」
テミスの放つ殺気に応じた女たちが言葉と共に身構えると、店の中を凄まじい緊張感が包み込む。
だが、怒りに呑まれているとはいえ、流石の女たちも町中で得物を抜き放つほど愚かではないらしく、威圧するかのように一歩前に進み出た剣士の傍らで、騎士風の女は固い籠手に覆われた手を固く握り締め、魔術師風の女は手にしていた杖でコツリと床を叩く。
まさに一触触発。
張り詰めた空気は、戦いに慣れていない町の者ですら本能で理解できるほどに煮詰まっており、店の中の誰もが、固唾を飲んで様子を見守っている。
その中で唯一フリーディアとシズクだけが、腰に帯びた剣と刀に手を添え、いつでも飛び出す事ができるように身を屈めていた。
「はんっ! 殺す……なんて言って脅せば私達が逃げるとでも思った? 私達をバラバラに切り裂くって言ったわよね? もしかして、その手のナイフでやるのかしら?」
「見たところ、そこの給仕の娘の友人か何かか? ならば、不義を押し通そうと企てるのではなく、友を諫めるべきだったな。一応忠告しておいてやる、食事用のナイフとはいえ武器に変わりはない。その切っ先をこちらへ向けた瞬間、我々はお前を敵として認識する」
「ふふふっ……あらあら黙っちゃった。怖い? 後悔している? 安心しなさい……私たちは優しいから、殺すなんて言わないわ。貴女みたいにね」
「…………」
緊迫した空気の中。
女たちはそれを気負う事無く口々に言葉を重ねると、つい先ほどアリーシャにして見せたように、威圧するかのようにゆっくりとテミスへ詰め寄っていく。
だが、テミスはそんな女たちの挑発じみた軽口に言葉を返す事も、詰め寄ってくる女たちを前に後ずさる事も無かった。
そして、テミスと女たちの距離が手を伸ばせば届くほどに縮まった刹那。
「邪魔をするなよ? 手元が狂う」
テミスは女たちを見据えたまま、別の誰かへと語り掛けるように言葉を紡いだ後、ニンマリと表情を歪めて蝋燭が蕩けたかのような歪んだ笑みを浮かべると、手にしていたナイフの切っ先をゆっくりと女たちへ向けて突き付けたのだった。




