1352話 正義の虜囚
復讐は何も生まない。
罪を憎んで人は憎まず、許しと慈しみを以て再び未来へと歩き出そう。
かつての世界で、聞き飽きるほどに耳にした、高潔なる慈悲と愛に満ち溢れた他人事な言葉。
我が身が恨みを買う今となって漸く確信できた。
これらの自己陶酔に満ちた小奇麗な言葉は、唾棄すべき戯れ言であると。
「フッ……皮肉なものだな……。本当に」
きっと、こんな戦いを切り抜けた後だからなのだろう。テミスは不思議と凪いだ気持ちで呟きを漏らすと、小さく皮肉気な笑みを浮かべた。
復讐とは、奪われたものを奪り返す行為だ。
悲劇の重さに膝を付いた足で再び立ち上がり、未来へ向けて歩き始める為の補填だ。
傍目から見れば確かに、何も生み出す事は無いのだろう。
それも当然の事。
悲劇によって齎されたマイナスを、ゼロへと戻しているだけなのだから。
「…………」
テミスはまるで、黒く粘ついたコールタールの中を歩いているかのように重い足を動かしながら、胸の中で静かに独り言を続ける。
心は凪いでいるというのに、永遠と晴れる事の無いこの気持ちは、きっと私が背負い続けていくべき咎なのだろう。
結局は悲劇の上塗り。誰も泣かずに済む事が一番だ。悲劇が起きてしまう前に駆け付け、窮地を救う事ができればどれ程に素晴らしい事か。
だが現実に、そんなヒーローなど存在しない。
それは、こんな人間の身には過ぎた力を得た今ですら変わる事は無く、悪党は悪逆の限りを尽くして悲劇を振り撒き、気付いた頃には……辿り着いた時に在るのは、積み重ねられた悲嘆だけ。
ならばせめて、これ以上の悲劇が積み上がる事の無いように、悲嘆に暮れる人々が一人でも、再び立ち上がる事ができるように剣を振るう。
結局の所は、今も昔も無能な私に出来る事など、この程度が関の山なのだ。
「テミス……」
「……文句や小言なら後にしてくれ。悪いが今は、お前の説教を聞いてやれるような気分ではない」
ゆっくりとした足取りで戻ったテミスをフリーディアが迎えるが、名を呼ばれたテミスは皮肉気な、しかし陰のある微笑みを浮かべたまま、静かな声で言葉を返した。
そしてそのまま、テミスはフリーディア達の間をすり抜けて通り過ぎようとするが、素早く閃いたフリーディアの手がテミスの手を後ろ手に捕らえて歩みを止めさせる。
「ハァ……ったく……。私は戦いを終えたばかりで疲れているんだ。お前には、少しくらい肩を並べて戦った私を労わろうという気持ちが無いのか?」
「あるわよ。だから、こうして引き留めているの」
「矛盾しているな。お前の目には、私が説教を受けて癒されるほど信心深いよう見えるのか?」
「ッ……。テミス、気付いていないのでしょうね。貴女今……酷い顔よ? あなたが何を思っているのかは私には分からないけれど……少なくとも、戦いに勝った者の顔じゃないわ」
「…………」
言葉を交わしている間も手を捕らえたフリーディアの手が離れる事は無く、背中の後ろから、静かに響いてくるフリーディアの言葉が追い縋ってくる。
当り前だ……。と。
そんなフリーディアの言葉に、テミスは黙したまま胸の中で言葉を返した。
この戦いに、本当の意味での勝者など存在しないのだから。
戦いに敗れ、己が胸に抱いた復讐を果たす事ができなかったヤヤは言わずもがな、私にはそもそもヤヤを斃す理由など持ち合わせていない。
故にただ、負けなかったというだけ。
悪党を打ち負かして浸る悦も無ければ、正義を為したと掲げる誇りも無く、何を以て鬨の声を上げろというのだ。
「……テミスさん。ヤヤ様と戦っている時、以前にヤトガミ様と戦っている時に私が見た表情とは違いました。凄く苦しそうで……剣を振るう時も、まるで何かに祈っているみたいで……」
フリーディアに言葉を返す事なく佇むテミスを見かねたのだろう、短い沈黙が流れた後、テミスの側へと歩み寄ったシズクが柔らかな声色で口を開く。
そのテミスと同じ赤色の瞳には、純真無垢で穏やかな光が宿っていて。真っ直ぐに見つめてくるその視線からは、心の底から自分のことを心配しているのだと伝わってくる。
「フッ……二人共、そう心配せずとも大丈夫だ。ああ見えて存外骨のある相手だったのでな……少しばかり疲れただけだ」
テミスは信頼と共に自らへと向けられたシズクの言葉に、傍らで意味深な微笑みを浮かべながら控えるサキュドへと目配せをした後。
フリーディアに掴まれた手を柔らかく解くと、優しくシズクの肩へと置いて穏やかな声で答えを返したのだった。




