1324話 苦渋の選択
重苦しい沈黙が、執務室の中を支配する。
それがまだ、絶望という感情に変化していないのは、ひとえにこれまでテミスが築き上げてきた武勇の賜物であり、テミスに従う兵達の心の頑強さとも言えるだろう。
束ねられた情報から浮かび上がってきた事実は一つ。
これまで苦楽を、生死を共にしてきた戦友が今、危機に瀕しているかも知れないという事。
不幸な行き違いであったのかもしれない。重なり合った偶然が紡ぎ出した不運であったのかもしれない。
だが、如何なる理由を重ねようとも、眼前にそびえ立つ現実が変わる事は無かった。
「テミス様ッ……!!」
「黙れマグヌス! お前達。今この瞬間より、この件については緘口令を敷く。一切の他言は無用……持ち帰った情報も全て機密扱いとする」
「な……っ!?」
テミスは焦りを帯びた口調で口を開きかけたマグヌスを、ギラリと睨み付けながら鋭く言葉を重ねて黙らせると、この場に居る者全てに新たな命令を下した。
その厳命は、事態がひっ迫している事を物語っており、肩を並べる兵士たちの顔にも緊張が駆け巡る。
「第九分隊と第十分隊は確か……あぁ、ヴァイセにクリスハルトか……奴等らしい」
苦々しげにそう呟きを漏らすと、テミスは作戦卓の端に寄せられていた駒を二つ取り上げ、報告にあった二つの村を示す地点へと打ち付けるように配置した。
ヴァイセは、この世界に来て歪んでいたとはいえ、ああ見えて人一倍熱血漢な所があるし、第十分隊のクリスハルトは、魔王軍時代から我々第一分隊の一翼を担っている生え抜きの精鋭で、マグヌスによく似た義侠心の持ち主だ。
村を襲撃するなどという所業が、そんな彼等の琴線触れない筈はなく。
家族や隣人たちに心を砕く商人の為に、住処を追われて悲しみと絶望に暮れた浮浪児の為に、彼等が迷うこと無く力を貸す様がテミスには容易に想像できた。
「大馬鹿者共が……!! ……と、本来ならば怒らねばならん所なのだろうな」
深い溜息を吐いた後、テミスは両手を作戦卓の端に付いて顔を伏せたまま、重々しく口を開く。
如何にそれらしい理由を並べようと、斥候任務の最中に野盗の退治を請け負うのはどう考えても最善の判断とは言い難い。
それだけではなく、冷静さを欠いて敵の戦力の確認すら怠り、現場へ急行するなど度し難い程の愚行である事に変わりはない。
……だが。
テミスの胸の奥底から湧き出て来るのは怒りではなく、身を震わせてしまう程の誇らしさだった。
「……ひとまず、報告ご苦労だった。抽出分隊は解体、各員原隊に復帰し別命あるまで部隊の指揮下に入れ」
「ッ……!! はいッ!!」
長い沈黙の後。
テミスは暴れ回る感情を抑え込むために数度大きく深呼吸をしてから、静かな声で報告に集った兵達に命令を下した。
すると、固唾を飲んでテミスの様子を窺っていた兵士たちは、半ば反射的に姿勢を正して命令を受領し、深々と一礼をしてから列を成して執務室を後にする。
そして兵士たちの去った執務室の中は、再び重苦しい沈黙が支配した。
「…………もしも」
ボソリ。と。
しばらくの間続いていた沈黙を破ったのは、頭を垂れたまま作戦卓を睨み付け続けていたテミスの声だった。
「もしも、あいつ等がヤヤ達と会敵していたら、生存は絶望的だろうな」
「テミス様ッ……!? では……救援には向かわないと仰るのですかッ……!?」
「行くべきではないッ!!! 向かってはならんのだッ……!!! ファントに暮らす人々の平穏と戦友二人ッ……!! 私達が選ぶべきものは……選ばねばならないものは明白だッ……!!!」
紡がれたテミスの言葉に、マグヌスが悲痛な叫びを上げると、テミスは突如握り締めた拳を作戦卓へと叩き付け、血を吐くような苦しみに満ちた声で叫び返した。
兵とは、民を守る為に存在するもの。兵を救う為に守るべきものを危険に晒したのでは本末転倒だ。
だが。頭では……理性ではそう理解していても、心が……感情がその判断を断固として拒絶していた。
確かに。最悪を想定すれば、もう手遅れなのかもしれない。けれど万に一つ、今すぐに兵を率いて飛び出せば間に合うかもしれない。
不運にもヤヤ達と会敵し、刃を交えていたのだとしても。敗れたとて捕虜として生き永らえている可能性は十分にあるし、深手を負ったまま助けを待っている可能性だってある。
「ッ~~~~!!! フリーディアッ……!! フリーディアッッ!! 私を止めろ!! 今だけで良い。今にも踏み違えそうになるこの足を……歩ませてくれるなッ!!」
食いしばった歯の隙間から噴き出すかの如く、テミスは掠れ声で絶叫すると、全身に力を込めて今にもこの身体を突き動かさんとする衝動を飲み下した。
助けに行きたい。
無茶をするなと叱りつけてやりたい。
そして……よくやったと。この胸の内に溢れる誇らしい気持ちを、直接あいつらに伝えてやりたい。
けれど。それは決して選んではならない間違った選択で。
だからこそ、テミスは必死で胸を焦がす思いに抗い、煮え湯を飲み下すが如き苦しみを堪えていた。
だが。
「……何を勝手に諦めてるのよ。馬鹿じゃないの? 私が貴女のそんな腑抜けた頼みを聞く訳が無いじゃない。帰還した分隊は5つ……撃退するのではなくて時間を稼ぐ事に努めれば、救援部隊を出す余裕は十分にあると思うけれど?」
フリーディアはテミスの懇願を一笑に伏すと、まるで苦悩に震えるその背を押すかのように、肩を竦めて言い放ったのだった。




