1322話 ひとときの安らぎ
早朝の鍛練で体に付着した汚れを洗い流した後、テミスたちを待ち受けていたのは普段自分達が捌いているものに倍する量の仕事だった。
しかし、そんな事は覚悟のうえ。マグヌスとサキュドの二人が担っていた仕事が、そっくりそのまま増えているだけなのだ。元々、これらの仕事は全て軍団長一人が担っていたものであり、フリーディアという対書類戦闘においては有能極まる補佐が居るだけマシだと言えるだろう。
無論。重要度の高い仕事は普段から私に回されるし、些事であればそのままマグヌス達が対応しているため、量だけで見れば倍以上になっているのだが。
「……フム」
執務机に向かったテミスは、小さく息を一つ吐くと、書類の上を走らせていたペンを置いて傍らの山へと積み上げる。
既に何百枚の書類に目を通したかは分からない。だが、ファントに住まう人々の数を考えれば、これでもまだ少ない方だと言えるはずだ。
「そろそろ……マグヌス達が起きてくる頃合いか?」
「……そうね。テミス、そちらの進捗はどう?」
「丁度今しがた片付いた所だ」
「ッ……!! そんなにできるのなら普段からやりなさいよ……」
返された問いにテミスが涼やかな笑みを浮かべて答えると、フリーディアは何処か悔し気な声を漏らしながら、自らの手元に新たな書類を引き寄せる。
悔し紛れに漏らされた呟きから察するに、フリーディアは勝手に対抗心を燃やして仕事の速さを競っていたらしいが、そもそも担っている仕事の量も質も違うのだ。競った所で何の意味も無いだろう。
「急ぐのは構わんが、つまらんミスをしてくれるなよ」
「わかってるわよ!」
「クス……ならば結構」
まるで苛立ちをぶつけるようにして仕事をこなすフリーディアに、テミスは静かに笑みを浮かべて釘を刺す。
だが、返ってきたのは苛立ちの籠った短い返答だけで。
これ以上は何を言っても無駄だ。そう判断したテミスは、フリーディアに向けていた視線を部屋の片隅に設えられている給仕セットへ向けると、長時間座り続けていた椅子からゆっくりと腰を上げた。
「備品の管理や部隊の練度の確認はマグヌス達に任せるとして……。さて、あいつらはどれ程の成果を持ち帰ったかな……」
一服を付けるべく、慣れた手つきで湯を沸かしながら、テミスは頭の中でこれからやるべき事を組み立てていく。
今日片付けるべき仕事の内、残っているのはどれも外回りが必要なものばかりだ。
生活用品の事ならば、ヤマトの町から助け出して以来リンやルゥが担ってくれているが、戦う力を持たない彼女たちには、それ以上の仕事を背負わせるべきではない。
欲を言うのなら、本隊とは別に輜重部隊や主計部隊といった、主に戦闘には関わらない部隊も欲しい所だが、白翼騎士団の連中が増えたとはいえ我々はそれほど頭数が多い訳では無い。現状では、設立した所で無駄になる可能性の方が高いだろう。
「フッ……頭の痛くなる話だな……」
コポコポコポ……と。
テミスは湧した湯を用意したドリッパーへと注ぐと、立ち昇ってくる珈琲の芳醇な香りを胸いっぱいに嗅ぎながら呟きを漏らした。
ギルティア率いる魔王軍や、ロンヴァルディアのようにしっかりと役割分担のされた大部隊を支えるのは、いくら栄えているとはいえファントという一都市では不可能だ。
ならば、様々な都市を呑み込んで勢力を伸ばし、国を興せる程に規模を大きくすれば話は早いが、それにかかる途方もない労力を考えると、やはり現状維持という選択が一番なのだろう。
尤も、そんな大部隊を率いる手腕は私には無いし、国を運営していくだなどという重責を背負わされるのは御免だ。
「さて……」
飛躍していた思考に、テミスは自分の中でそう結論付けると、淹れたての珈琲を自分のカップにだけ注いで静かに口を付けた。
一応、マグヌスやサキュド、そしてフリーディアの分も淹れはしたが、起き抜けの副官達は兎も角、気が立っているであろうフリーディアには、ひとまず目の前の仕事にケリが付くまで触れるべきではないだろう。
ならば、特にやる事は無く。
手持ち無沙汰となったテミスは、良い香りと共に湯気を放つコーヒーカップを手に持ったまま自分の席へと戻ると、活気にあふれるファントの街並みへと視線を彷徨わせる。
「いつまで保ってくれるか……」
そして、ボソリ……と。
胸の内に秘めた不安を零すかのように、テミスは小さな声で呟いたのだった。




