123話 絶望の淵
ヒョードルと言う男は、ロンヴァルディアの貴族をこれ以上無いほど体現している人間だった。
向上心高く常に上を見上げ、対抗する者や邪魔する物を廃し、ひたすらに上へ上へとのし上がる。それは自らの地位だけではなく、貴族としての家の格を押し上げる事にも繋がり、ヒョードルは方面指令の座を拝命するまでになった。
「ククク……姫君より先に、やはりあちらが痺れを切らしたか」
ヒョードルは広い地下牢を歩きながら、嫌らしい笑みを浮かべて呟いた。
地下とは言えど、特別監獄よりは明るく清潔な牢獄には、何のために設えているのか、これ見よがしに大小様々な拷問器具がずらりと並べられていた。
その視線の先。地下牢の最奥に位置する格子の中にフリーディアは囚われていた。
そのくすんだ髪や汚れのついた白肌は、彼女が真っ当な扱いを受けていない事を明確に表している。
「どうかね? 調子は」
「最悪ね。こうも趣味の悪い景色しか見えないんじゃ気が滅入るわ」
格子の前に立ったヒョードルが声をかけると、拘束されたままのフリーディアが僅かに顔を上げて皮肉気に答える。その目には相変わらず力強い光が宿っていた。
「ファッファッファッ。お前がこちらの条件を呑めば直ぐにでも温かい食事や広い部屋、柔らかいベッドを用意するのだがな」
「お断りよ。外道の軍門に下るくらいなら、この汚らわしい地下牢で死に果ててやるわ」
ヒョードルが高笑いと共にフリーディアを睨み付けると、じゃらりと鎖を鳴らしたフリーディアは不敵な笑みを浮かべて睨み返す。そして、互いの視線が数秒火花を散らした後、ため息と共にヒョードルが明後日の方向へと視線を逸らす。
「まぁ、お前はそれで構わんのだろう。ああ……お前はな」
「……どういう、意味よ?」
「フフフ……解らんか? ああ、わからんだろうな? 音も届かぬこの地下牢に居ては解るはずもない」
目を逸らしたままヒョードルはニンマリと笑みを広げると、横目でフリーディアの反応を観察しながら言葉を続けた。
「実は今、我が屋敷は賊に奇襲を受けていてな」
「賊……ですって……?」
「ああ。そうとも。その賊はあろう事か、白翼騎士団の団旗を掲げ、白銀の甲冑に身を包んでおるのだ……」
「――っ!?」
ヒョードルがゆっくりと獲物を嬲るような口調で告げると、微かな鎖の揺れる音と共にフリーディアが息を呑んだ。
「無論。話題を利用したただの賊であろう。直ぐに我が屋敷の衛兵が捕らえてその正体を白日の元へと晒してくれよう」
「っ……そん……な……」
微かに。蚊の鳴くように小さな声で目を見開いたフリーディアが嗚咽を漏らす。
ロンヴァルディア付きの騎士団の備品は、簡単に賊が模倣できるほど粗雑な作りはしていない。つまり、白翼騎士団の団旗を掲げ、白翼騎士団の甲冑を身につけている時点で、現在ヒョードルの屋敷を襲撃しているのは白翼騎士団に相違ないのだ。
それを理解した上で、ヒョードルはフリーディアの心を折る為にその情報を語り聞かせていた。
「さて……もしも仮に……ああ。仮にだ」
フリーディアの絶望の表情に満足したのか、見るもおぞましい程に歪んだ笑みを浮かべたヒョードルが、格子の隙間からフリーディアの顔を覗き込む。
「清廉潔白なかの騎士団が賊に堕ちる事など無い……あってはならぬ事だとは思うが……仮に捕らえた賊が白翼騎士団の者だったら……どうなるかのぉ?」
「っ……くっ……」
フリーディアはその言葉を聞くと、まるでヒョードルから逃げるように視線を逸らす。しかし、ヒョードルはその視線の先へと回り込むと、再び腰をかがめて顔を覗き込んで問いを続けた。
「捕らえた賊は処刑……そして、このロンヴァルディアの秩序を乱した罰として、一族郎党責任を負うじゃろうなぁ……?」
ヒョードルが言葉を切り、まじまじとフリーディアの顔を眺める。その顔は無念と屈辱にまみれており、ヒョードルの嗜虐心を満たすには十分すぎる表情だった。
「わかったわ……」
ボソリ。と。
フリーディアの口が小さく動くと、平坦な声で言葉が発せられた。
白翼の皆が殺されるよりは。
自分に付いてきてくれた皆の大切な人まで侵されるくらいなら。
硬く目を瞑ったフリーディアの心は、溢れんばかりの悔しさと不甲斐なさで満たされていた。
「やれやれ。お前の貫く正義とやらはその程度のものだったのか?」
「っ――!!」
フリーディアの心が折れかけた刹那。
地下牢に傲岸不遜な凛とした声が響き渡り、コツコツと硬い軍靴の音がフリーディア達の方へと歩み寄る。
「何奴っ!? 兵共は何をしておった!!」
同時に。怒りの叫びをあげたヒョードルが後ろを振り向くと、彼の足元にドサリという音と共に何かが投げ出される。
そしてその視線の先には、溶けた蝋燭ように歪んだ笑みを浮かべるテミスの姿があった。
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