1321話 旗下と采配
マグヌスから告げられた言葉を耳にした瞬間。テミスの全身を暖かな湯に包まれたかのような安堵が駆け巡る。
敵襲のような緊急の報告であれば、たとえ疲れ果てていて泥のように眠っていたとしても、容赦なく叩き起こされるだろう。
だが、そのような蛮行に及ぶ事なく、この真面目な忠義者がこうして待ち構えていたという事は、報告の内容など一つしか考えられない。
「ッ……!! ようやく来たかッ……!!」
「ハッ……。即時帰還命令を発した部隊の内、第一から第三、第五、第七部隊が昨夜遅くに次いでファントへと帰還しました」
「幾らか欠けはあるものの、ひとまず窮地は脱したな……。帰還した連中は?」
「即時休息を取らせております。現状を鑑み、報告よりも戦力の充足が急務化と判断したようです」
「フッ……」
どうりで……。と。
マグヌスの報告にテミスは僅かに頬を緩めると、執務室の傍らに設えらえれているサキュドの私室へ繋がる扉へと視線を向けた。
執務室に隣接する軍団長私室をねぐらとするサキュドには、夜間などのテミスやマグヌスが不在の折に発生した事案について、一定の指揮権と裁量権が与えてある。
そのサキュドがこの場に居ないという事はつまり、与えられた役割に従って夜中に帰還した兵達の応対をこなし、今は体を休めているのだろう。
「マグヌスもご苦労だった。サキュドから朝の仕事を引き継いだのだろう? 昼過ぎまで休んでくると良い。後は私たちでやっておく」
「しかしっ……!!」
「無理をするな。今はフリーディアも居る。そう大した負担ではないさ」
「ッ……!! ハッ……お心遣い、痛み入ります」
続いて、テミスは涼やかな笑みを浮かべると、マグヌスの傍らを通り過ぎながら命令を下す。
サキュドが今席を外しているという事は、彼女ほどでないにしてもマグヌスとて相当早い時間に叩き起こされたに違いない。
ならば、額面通りに無理を強いるよりも、逼迫していた戦力にある程度の余裕を持てる兆しが見えた今、有事に備えて休息を取らせるのがベストだろう。
そう考えたテミスの命令を、マグヌスも一度は休息を固辞しかけるが、悠然とした口調でテミスが言葉を重ねると、ビシリと背筋を正した後に深々と頭を下げて礼を口にした。
「当然の事だ。なに……本来であれば私が叩き起こされていたのだ。よくぞ私の安眠を守ってくれた」
「フフッ……。それでは、しばしの間、失礼致します!」
そんなマグヌスの固い態度をほぐすように、テミスは自らの執務机へ腰を預けてもたれ掛かると、彼の態度に合わせて大仰な口調で褒め称える。
無論。暇を出されたマグヌスが余計な気を回さない為の、半ば冗談のようなものではあったのだが、マグヌスは即座にテミスの言葉に込められた意図を汲み取ると、小さく笑みを浮かべて再び姿勢を正してから執務室を後にした。
「……見事な采配ね」
「皮肉か?」
「いいえ。本心よ」
そして、執務室に残されたテミスとフリーディアの間に僅かな沈黙が漂った後。
これまで沈黙を貫き、テミスの付き人としての役に徹していたフリーディアが静かに口を開く。
その、何処か貫禄と風格を漂わせる姿は、まさに騎士団を率いる長そのもので。
咄嗟にまろび出たテミスの皮肉も、フリーディアはただ一笑に伏しただけで軽く受け流す。
「今は私達で代わる事ができるのだから、休むべき時間の仕事を引き受けてくれたマグヌスさん達は休むべきだわ」
「ハッ……そんな風にお前が素直に私を褒めるなど、気味が悪くて堪らんな」
「酷い言い様ね。私は思ったことを素直に口にしているだけよ。昔も……今もね」
「そうかい。それは何よりだ。心労が少なそうで羨ましいね」
言葉を重ねたフリーディアに、テミスは肩を竦めて再び皮肉を叩きつけると、自らの執務机の傍らの壁に大剣を立て掛けて席へと腰を落ち着ける。
その隣では、フリーディアが腰に提げていた剣を剣帯から抜き取ると、自らの席の傍らに立てかけてから、テミスと同じように席へと着いた。
「ところでテミス」
「ン……?」
「私は貴女の配下。労わるべき存在よね?」
揃って腰を落ち着けた途端、フリーディアは不敵な微笑みを湛えてテミスへと語り掛ける。
こいつがこういった顔をする時は、決まって何かくだらないことを企んでいる時なのだが……。
「それがどうした。お前はサキュドやマグヌスと違って特別に働いていないだろう」
「別に休みが欲しい訳じゃないわ。貴女じゃないのだもの」
「だったら何だ? いちいち勿体を付けるな」
「順番」
「は……?」
「執務室を空ける訳にはいかないわ。だから、汗を流す順番……私が先でも良いかしら?」
「っ……!? フム……?」
確かに言われてみれば、先程の戦いで随分と汚れてしまったように思える。
フリーディアに言われて改めて我が身を顧みたテミスは、何処か納得をしながら再び視線をあげると、そこではフリーディアが僅かに頬を赤らめながらテミスの返答を待っていた。
その内心を察するに、フリーディアとしてはどうやら一刻も早く汗を流しに行きたいようで。
「ハッ……好きにしろ」
そんなフリーディアに、テミスは内心で可愛らしさすら覚えながら、クスリと笑みを浮かべて嘯いたのだった。




