1312話 見えざる恐怖
テミスが帰還命令を発してから五日。
臨戦態勢の敷かれたファントの町では、いつもと変わらない平穏な日常が流れていた。
しかし、市街の警備に当たる衛兵や、町の防衛に着いた兵士たちの顔から緊張が消える事は無く、町の住人たちの平穏と乖離した彼等の緊張感からは、ある種の異様ささえも感じられた。
「っ……ムゥ……」
そんな中。
ファントを守護する黒銀騎団が駐留する詰め所では、難しい表情を浮かべたテミスが唸り声を漏らしながら、作戦卓を睨み付けていた。
こちらが明確な動きを見せてから十分に時間は経った。ヤヤがファントを狙ってこの近くに潜んでいるのだとすれば、間違い無くこちら動きは伝わっている筈だ。
故に。十分な偵察と検討を終え、攻め入ってくるのであればそろそろの筈なのだが……。
「何も無い……か……」
万全の警戒態勢を敷いているにもかかわらず、何の音沙汰もない。
それは本来であれば好ましい状況ではあるのだが、脅威が近くに迫っている現状では、この静寂からはただただ不穏な不気味さしか感じなかった。
何か、別の狙いが隠されているのではないか? 裏をかかれた……? いや、相手の潜伏能力がこちらよりもはるかに優れていた…‥? それとも、この空白は敵が意図的に作り出したもの……? ならば、それが意味するところとは……?
思考を巡らせれば巡らせるほどに、テミスの脳裏には己が心の不安を写し取ったかの如く、次々と最悪の予測が噴き出て来る。
ただでさえ、こちらは少ない手勢で応じなければならないのだ。一手しくじれば、それが取り返しの付かない致命傷になる可能性は高い。
「クソ……何だ……? 何が起きている……?」
「テミス。……テミス」
「っ!? 何だっ!! 何かあったか!?」
テミスがガリガリと頭を掻き毟りながら必死で思案を巡らせていると、傍らから見かねたように進み出たフリーディアが静かにテミスの名を呼んだ。
しかし、その言葉に応じたテミスはビクリと身体を跳ねさせると、フリーディアの方へ向き直って激しくまくし立てる。
「何も無いわ。だから少し落ち着きなさいよ」
「ッ……!! 馬鹿をいうな!! ただの野盗退治とは違うんだぞ! 戦と同じ……常に最悪を想定して動かねば取り返しの付かない事になるッ!!」
「もぅ……指揮官がそんな有様では士気にかかわるわ。不安なのはわかるけれど、皆の為にもどっしりと構えていなさい」
「だがッ……!!」
フリーディアはテミスへ向けて涼やかに微笑んでそう告げるが、テミスが視線を作戦卓の上から離す事は無かった。
どっしりと構えていろだと? そんな、ただ安心させるためだけのポーズなど今は二の次だろうが。敵の狙いが見えない以上、考え得る全ての事態を想定して備えなければ……。
「ハァ……。流石のテミス様も待ち戦は苦手みたいね?」
「ッ……何だと……?」
「あ~あ、私もこうすればよかったのね。もっと早くに知りたかったわ。少し敵の狙いが分からないくらいで、こんなにみっともなく狼狽えちゃって馬鹿みたい」
「フリーディア……ッ!! 貴様ァッ……!!」
「ッ……!!!」
そんなテミスに、フリーディアは小さく溜息を吐くと、ニヤリと口角を吊り上げて意地の悪い笑みを形作って言葉を重ねた。
無論。こんなわかりやすすぎる挑発など、普段のテミスならば鼻で嗤って受け流す所か、お返しといわんばかりに特大の皮肉を以て応じていただろう。
しかし、今のテミスにはその程度の余裕すら無く。テミスは怒りに顔を歪めてフリーディアの胸倉を掴み上げると、猛獣の唸り声のような低い声と共に血走った眼でギラリと睨み付ける。
「だってそうでしょう? こんなにも面白い位に敵の術中に嵌っているんだもの。いいえ……それどころか自滅しているだけね。これを馬鹿と言わずしてなんというの?」
「自滅……? 私が……ッ!?」
「クッ……ふ……ふふ……。こうして、貴女が私の首を締め上げているのが何よりの証拠じゃない? 私達が争った所で、ファントには害しか無いわ。逆に相手からしてみれば、敵が勝手に消耗してくれるんだもの。利益しか無いわ」
「ッ……!!!!」
苦し気な息を漏らしながらも、フリーディアは不敵な笑みを浮かべて言葉を続けた。
それを聞いた途端、テミスはまるで脳天を打ち抜かれたかのような衝撃を受け、意識せずフリーディアを締め上げていた手の力が緩む。
言われてみればそうだ。視野を広げねば……と。多くの事を想定しなければと考えるあまりに、視野狭窄に陥っていた。
確かにこの状況は、ただがむしゃらに目の前の問題へと食らい付いてきたこれまでの戦いとは違う。だがそれがどうした? 戦争の指揮など、もともと専門外なんだ。
素人の私が考え付く事などたかが知れている。打てる手は全て打ったんだ。ならば、今私のすべきことは……。
「フリーディ――ッ!!?」
フリーディアの言葉を契機にテミスは正常な思考を取り戻すと、まずは謝罪を述べるべく口を開いた。
しかし次の瞬間。
ゆらりと伸びたフリーディアの両手がテミスの頬を掴むと、テミスは驚きに目を見開いて言葉を失ってしまう。
「ようやくお目覚めみたいね? 全く……よくも全力で締め上げてくれたわねッ!? 凄く痛かったわよッ!! 少しは加減しなさいよこの馬鹿力ッ!!」
「むぎゅっ……!! ふまん……わりゅかっひゃ……!! もがおぅ……」
「簡単には許さないわよ? えぇ許しませんともッ!! しっかりしなさいっての! 本当に……ッ!! この……このぉッ……!!」
そのままフリーディアは、テミスの頬を掴んだまま捏ね回すように手を動かすと、己が怒りを練り込むかのようにテミスへと言葉を浴びせた。
そんなフリーディアの怒りが収まるまで、テミスはしばらくの間抵抗する事無く、ただひたすらに己の顔面をもみくちゃにされていたのだった。




