1307話 朝焼けに彷徨い出て
翌朝。
外では早起きな鳥のさえずりが澄んだ空気を揺らし、ゆっくりと昇ってくる柔らかな陽の光が、ファントの町を照らし始めている。
新たな一日の始まり。
そう形容するに相違ない景色を窓の外に映し出す執務室の中では、テミスとフリーディアが揃って自らの席に突っ伏して寝息を立てていた。
尤も、二人が睡魔に意識を誘われたのはつい先ほどの事で。
寝食を惜しんで議論を交わしたその成果は、分厚い作戦書となって部屋の中央に鎮座する作戦卓の上に安置されている。
「…………」
今は二つの寝息だけが響く静かな執務室の中。
そこへ、カチャリ……。と軽い音と共に部屋の傍らに設えられた扉が開くと、滑り込むようにしてサキュドが姿を現した。
彼女自身、昨日は遅くまでテミス達と執務を共にしていたのだが、途中で他でもないテミス達の手によって自室へと追い立てられ、半ば強制的に休息を取らされていたのだ。
その甲斐もあってか、このような早朝にあっても、サキュドは多少の眠気こそ感じるものの、こうして問題無く起きてくる事ができているのだが。
「……アタシがこんな早起きなんてね」
眠りこけるテミス達へ静かに視線を向けた後、サキュドはボソリと呟きを漏らしながら、足音を殺して部屋の中を進んだ。
部屋の様子を見るに、どうやらテミス達は後片付けをする体力までは残っていなかったらしい。
書類や資料は散らかり放題。書き損じの書類や、ぐしゃりと丸められた紙が至る所に転がっている。
どうやら、今日の最初の仕事は、この部屋の後片付けかららしい。
胸の中でそう独り言を漏らしたサキュドは作戦卓の横で足を止めると、その上に置かれた作戦書へゆっくりと手を伸ばした。
「…………」
そこに在ったのは、純粋な好奇心だった。
この二人が如何にして、傍目から見ても苦しいこの状況を打破せんとしているかがここに記されているのだ。
気にならない訳が無い。
だが、幾ら副官の席を拝しているといえど、指示も無く一人で作戦書を盗み見るような真似は、許されるようなものではない。
それでも。
これから、この部屋の後片付けをするのはアタシなんだ。
盗み見る訳じゃない。片付けをする為に少しだけ中身を確認するだけ。
ゆっくりと作戦書へと伸ばした手が近付くたびに、ドキドキと胸の鼓動が早鐘を打ち、喉が知らずの内に生唾を飲み下す。
そして、好奇心に呑まれた目を爛々と輝かせたサキュドの手が、静かに作戦書へと触れた時だった。
「サキュド」
「ひぐッ――!!?」
突如。
傍らから静かな声で名を呼ばれ、サキュドは文字通り跳び上がって驚くと、身を竦めたまま声のした方へと視線を向ける。
そこでは、廊下へと続く扉が半ばまで開かれており、もう一人の副官であるマグヌスがちょうど、音も無く執務室へと入ってきていた所だった。
「バッッ……カじゃないのアンタッ!!!! 執務室に入ってくるのに、わざわざそこまで完璧に気配まで消すコト無いでしょうッ!! っていうか、アンタなんでこんな早い時間に来てるのさ!?」
「テミス様方の事だ、どうせあのまま眠ってしまっておられるのだろうと思ってな。後片付けくらい手伝おうと思ってきたのだが……」
「だったらアタシを驚かすんじゃないわよ!! 危うく叫ぶところだったわッ!!」
サキュドは自らが犯しかけていた重大な罪を忘れ、声を潜めたままマグヌスへ向けて叫びを上げる。
だが、マグヌスは何故サキュドがそこまで怒っているのかを理解できず、苦笑いを浮かべてサキュドを宥めにかかった。
「声を潜めているとはいえ、そう叫ぶな。テミス様たちが目を覚まされてしまう。それよりも……」
「っ……!! ……えぇ、作戦書よ」
マグヌスに諭されたサキュドは、ビクリと小さく肩を跳ねさせてテミス達の方へと視線を向けると、テミスとフリーディアが眠っている事を確かめてから、静かにマグヌスへ首肯を返す。
そして、二人は揃って作戦卓の上に置かれた作戦書へと向き直ると、何故かそこはかとない気迫を感じて小さく息を呑んだ。
「ねぇ……マグヌス……」
「ム……」
そこでようやく、サキュドは先程自らが犯しかけていた罪を思い出すと、なんとか弁明を試みるべく、視線を泳がせながら傍らのマグヌスへ向けて口を開いた。
だが。
そんなサキュドの真横をマグヌスの頑強な腕が通り過ぎ、いとも容易く、そして無造作に作戦書を手に取ってしまう。
「なっ……!? あ……アンタ……ッ!!」
「……? どうした? ほら、さっさと確認するぞ。お前もそのつもりだったのだろう?」
「えぇっ……? だけど……っ!?」
あの堅物なマグヌスが、命令も無しに作戦書を……!?
普段の彼からは予想もつかない奇行に、サキュドが疑問を覚えてその身を硬直させた時。
その視界の片隅に、作戦卓の上に散らばっている雑多な書類の一部が飛び込んで来る。
先程は、自分の影が重なっていて見えにくかったが、マグヌスの側まで移動した今ならば、朝の柔らかな日差しに照らし出されていた。
そこには。
恐らく、限界まで眠気を堪えたテミスが書き置いたのだろう。一枚の紙に書きなぐったような乱暴で大きな文字でただ一言。『あとは任せた』と書かれていて。
「ぁ……ハハ……。そうね。そうよ。えぇ」
それを見た途端、先程まで自分が抱いていた背徳感は全て幻想だったと知り、サキュドはどっと胸の内に襲い掛かる疲労感を隠しながら、乾いた笑みを浮かべてマグヌスと肩を並べたのだった。




