1302話 二つの姿
夜。
情報収集を兼ねた食事会も終わり、テミスは今日一日酷使した身体を休めるべく、早々に自室のベッドに潜り込んでいた。
階下からは、未だに人々の歓声が響いており、持ち帰ったエビルオルクの肉はいたく好評を博しているらしい。
今日ばかりは、エビルオルクを狩った者の特権として、一足先にこの店に肉を持ち帰ったが、きっと明日にはギルドから売り出された残りの肉が町へ出回り、数日はこの大騒ぎが続くのだろう。
「フゥム……」
頭の隅でそんなとりとめもない事を考えながら、テミスは明かりを落とした部屋の中で、一人悩まし気に溜息を吐いた。
正直に白状するのならば、ファントへ戻ってからというもの、色々な面倒事が起こり過ぎていたせいで、ヤタロウに渡された書類の事などきれいさっぱり忘れ去っていた。
今回、エビルオルクの腹に突き刺さっていた脇差しを見付ける事が無ければ、終ぞ思い出す事すら無かっただろう。
「順当に考えるのならば……マズい……よなぁ……?」
テミスはそう呟きを漏らすと、鉛のように重たい身体を僅かに起こし、ベッドの傍らに設えてある机の上から、抜き身の脇差を取り上げて目の前に掲げる。
――綺麗な刀身だ。
まるで鏡のように輝く刀身が映す己が、刀の中から自分を見返しているのを眺めながら、テミスは素直な感想を胸の中でひとりごちる。
この町に持ち帰ってから簡単な清掃は施したとはいえ、僅かな反った刀身に歪みは無く、鋭い刃には刃毀れの一つすら見受けられない。
それは、この脇差しの使い手の卓越した技量を物語っており、同時にこの脇差しが丁寧に手入れされていた証拠でもあった。
「……伝え聞く人物像とは、酷く乖離している」
シズク曰く、この脇差しの持ち主である夜々は、あのヤトガミ同様に武力の強さを至上とする性格らしい。
その苛烈な性格と優れた剣の腕前故にヤトガミからは重用され、若いながらに各国家に対する暗躍や諜報、殲滅を担う特殊部隊の部隊長を任ぜられている。
だが、この脇差しから伝わってくるのは、主武器足り得ない脇差しまで日々の手入れを欠かさぬ几帳面さや、力任せではなく積み重ねた鍛練による緻密な技量ばかりで。
ともすれば、この脇差しの持ち主は全くの別人なのではないか。
そう感じてしまうほど、シズクから伝え聞いた夜々のイメージと、脇差しから感じ取れる夜々のイメージは全くの別物だった。
「仮に……ヤヤがシズクの言う通りの人物だとしたら……」
獰猛にして残忍。
己の持つ力を存分に振るって周囲を屈服させ、力を以て思うがままに振舞う……。
そんな夜々の性格を鑑みれば、平穏と発展を兼ね備えた今のファントなど垂涎モノの獲物だろう。
この町で暮らす人々を、財物を我が物とすべく襲い掛かってくるのならば、戦闘は避けられない。
残る問題は、戦いの中で相対したとして、夜々を生かして捕らえる事を試みるのか、それとも純然たる敵として斬り殺すのかという一点に尽きる。
「らしくない……。そう言われて否定はできんな」
掲げていた脇差しを下すと、テミスはふと先程フリーディアに告げられた言葉を思い出して皮肉気な笑みを浮かべた。
己が欲望や享楽の為にファントへと襲い掛からんとするのならば、間違い無く夜々は悪逆の輩だと言えるだろう。
ならば、そこに迷いが介在する余地など欠片ほども無く。この世から排除すべき悪として、剣の錆にしてやるのが道理と言える。
だが……悪に堕ちたとはいえ、この世にただ一人残された肉親を殺められて尚、心の底から友として接することの出来る者など存在するだろうか?
しかも、今回はヤタロウからの要請もあったギルファーの件とは異なり、完全にこちら側の独断でその命に手をかけるのだ。
意図的に情報を伏せ、知らぬ存ぜぬで通す事ができるとはいえ、ファントを襲った逆賊として冷たい骸となった妹を突き返しでもすれば、ファントとギルファーの間に深刻なしこりが残るのは確実だろう。
「あぁ……面倒臭い。これだから政治というやつは嫌いなんだ。だからこそ、あいつに任せておきたかったのにッ……!」
ガシャリ。と。
苛立ち紛れに脇差しを元の場所へと放り投げると、テミスは空になった手でぼふぼふと布団を叩きながら、虚空に向かって不満を吐き出した。
やっとの思いで戦争を終わらせたと思ったら、次から次へと火種が湧き出て来る。
夢に出てくる程に思い焦がれる平穏な日々は遠く、心のままに自堕落な日々を過ごすなんて事は到底出来そうもない。
強いて言うのなら。
今日食べることのできたエビルオルクの肉が、驚く程に美味かったのがせめてもの救いだろうか。
「ハァ……。まぁ……仕方ないか……。兎も角、明日は鞘を仕立てに行かねば……」
苛立ちがどこかノスタルジックな気分へと姿を変えた頃、テミスは己が内に唐突にやってきた眠気の波を逃す事無く捉えると、意識と身体を抗う事無く委ねた。
同時に、やるべき事柄が積み上がってしまった明日へと思いを馳せながら、ゆっくりとその目を閉じたのだった。




