1296話 大物狩りの帰還
夕陽に照らし出されたファントの町。
本日も大きな異常は無く、いつもと変わらない平穏な一日が過ぎ去ろうとしていた。
だが、閉門時刻の迫った通用門の前には武装した衛兵たちが次々と集い、不安気な表情で街道の向こう側へと視線を向けている。
そこには、数刻前に突然現れた小さな山のような黒い塊が徐々にその大きさを増し、ごま粒ほどの大きさだった黒い塊は、今やゴルフボールほどの大きさにまでなっていた。
「やっぱアレ……動いてる……よな……?」
「だから言っただろッ!! こっちに近付いて来てるってッ!! 小隊長ッ! 警鐘を鳴らしましょうッ!!」
「…………」
集まった衛兵たちは漂い始めた不穏な空気に耐え兼ね、口々に己の意見を叫びあい、現場指揮官に意見を具申する者まで現れていた。
だが、小隊長に任ぜられている男は、街道の彼方に現れた異変を食い入るように見つめたまま動かず、真一文字に食いしばられた口が指示を発する事は無かった。
つまり、その沈黙が意味する命令は待機。
迫り来る明確な異変に備え、戦う力の無い町の住人たちを護るために、己が身を盾と構えて待ち受ける。
それが衛兵たちに与えられた任務だった。
「ッ……!!!」
しかし、不動の選択を取った小隊長もその内心は穏やかではなく、寧ろ異変の正体が判らないからこそ動けずに居た。
あの謎の物体は、確実にファントの町へと近付いてきている。
もしもアレがファントの町に敵意を持つ存在であるならば、一刻も早く黒銀騎団へと伝えるべきなのだろう。
だが万が一、アレにファントへの害意すら持たないものであったら? ……例えば、荷馬車に溢れんばかりの荷を積んだ商人であったならば?
脅威でも何でもない存在を相手に警報を発して町の住人へ不安を与え、町の守護者たる黒銀騎団に誤報を発し、兵士たちを無駄に動員した事になる。
その責任は全て、徒に警報を発した己が身へと降りかかってくるだろう。
「ウ……ゥゥッ……!!」
何故。よりによって今日なのだ。と。
小隊長は固く歯を食いしばると、その隙間から苦悩の声を漏らす。
問題が起こるのならば、自分が非番の非であって欲しかった。せめて、指揮権が自分に無い日であれば、このような苦悩を背負う事も無かったはず。
先日の騒動で衛兵を辞したバニサスならば、迷う事無く黒銀騎団へ伝令を走らせただろう。
だが、それは奴が個人的にテミス様や黒銀騎団との面識があるからできる事で。
一介の衛兵に過ぎない自分では、あんな真似は到底出来るはずも無い。
しかも、つい先ほど部下から受けた報告では、どうやらテミス様もフリーディア様も今朝から揃って町を空けているというではないか。
こんな、ファントの守りが薄くなっている時に限って現場指揮官などという任に就いてしまい、その最中に異変が起こるなんて不運にも程がある。
そう己の不幸を嘆きながら、小隊長は胸の中でさめざめと涙を流し、ただ何をするでもなく祈るような気持ちで徐々に大きさを増す黒点を見つめていた。
「フゥ……。おい、フリーディア。喜べ。ようやく戻って来れたぞ」
「……みたいね。町へ戻ってくるのが、こんなに嬉しかった事は無いわ」
ファントの町の前ではそんな騒動が起きているなど露知らず。
テミスとフリーディアはエビルオルクの小山のような死体をずるずると引き摺りながら、遠くに見えるファントの町を目指して歩を進めていた。
しかし、その足取りは非常に重く、汗にまみれた二人の表情にも色濃い疲労が浮かんでいる。
それもその筈。
エビルオルクの巨体を運ぶために道なき道を切り拓いて進んでやっと街道まで辿り着いたのだ。時には木の幹の間を力づくで押し通り、下り坂に差し掛かった時には転がり始めたその巨体に危うく潰されかける羽目になった。
その過酷な行程は、普通の冒険者パーティーでは街道に戻る事すら到底不可能で。
怪力を誇るテミスと、これまで厳しい戦いを潜り抜けてきたフリーディアだからこそできた荒業だった。
「ハァ……ハァッ……!! こんなモノ、何度打ち棄ててやろうと思った事か……!!」
「流石にそればっかりはッ……否定できないッ……わねッ……!!」
「野宿でもできれば、楽だったのだろうが……うん……?」
額に浮いた球の汗を拭いながら、テミスが姿の見えないフリーディアと言葉を交わした時だった。
顔を上げたテミスは小さく首を傾げると、口元に大きな笑みを浮かべてその足を止める。
「ッ……!? テミス? もう少しなんでしょう? 休んでいる暇なんて――」
「――いいや。ここで待とう」
「は……? 待つって何を……?」
「……迎えだよ」
即座に背後からフリーディアの怒りの声が飛んでくるが、テミスは満足気な笑みを浮かべてその場に座り込む。
何故なら。テミスの目は前方に鎮座する大きな門の方から、衛兵らしき数名の人影が、こちらへ駆けてくる姿を捉えたのだ。
あとは町から荷車でも持って来るか、人手を借りて運び込んでしまえばいい。
どちらにしても、たった二人でヒィヒィと息を切らせながら、必死で運ぶ必要は無くなった。
「あぁ……疲れた……。エビルオルクの肉は大層美味いと聞く。やっと、この苦労が報われる時だ。今から楽しみだな? フリーディア」
「私はそれよりも、早くお風呂に入って着替えてしまいたいわ……」
夕焼けに染まった空を見上げ、何処か清々しさすら漂わせながらテミスが零すと、ふらふらとテミスの隣まで回り込んできたフリーディアは、ドサリと音を立てて腰を下ろしながら物憂げにそう応えたのだった。




