1294話 勝利の代償
テミスの剣が深々とエビルオルクの眼窩を抉り、その巨体から意思の力が抜け落ちていく。
同時に、ビグンッ! ビグンッ!! と。
テミスの剣がエビルオルクの中を穿る度に、ゆっくりと崩れ落ちていくエビルオルクの身体が不気味に震える。
「ハァ……ハァッ……!! 余計な手間を……かけさせやがってッ……!」
そのまま、死体となったエビルオルクの身体が落ちていくのに任せて、テミスは眼窩に叩き込んだ剣の柄から手を離すと、荒い息と共に自らの頬に飛んだ返り血を拭う。
ともあれ、これでエビルオルクの討伐は完了だ。
発見の報が無い故に、この骸は全て持ち帰る必要があるだろうが、たった二人でこの化け物を倒したのは、大殊勲と言って良いだろう。
「フゥッ……。ん……?」
熱い息を一つ付いた所で、テミスはふと違和感を覚えると、丸く見開いた眼を傍らに転がるエビルオルクの死体へと向けた。
血の流れ出る眼窩には今も深々と剣が突き立ち、再び動きだす事はあり得ない。
だというのに、何処からか何かをバシバシと叩くような音が、微かにテミスの耳を打ったのだ。
「あ……!」
そして数秒。
真っ黒な毛皮の山に視線を走らせると、テミスは己の耳が捉えた異音の元を発見する。
その場所は丁度テミスが斬り付けたエビルオルクの肩口辺りで。巨体に比べて見落としてしまいそうな程小さな人の手が、まるで助けを求めるかのようにバシバシとエビルオルクの肉を叩いていたのだ。
「そういえばそうだったな」
それを見て漸く、フリーディアの存在を思い出したテミスは、クスリと小さく笑みを浮かべると、小山のような死骸を迂回して突き出ている手の元へと向かった。
考えてみればあの時のフリーディアはエビルオルクに喰われる寸前だった。
だから恐らく、半ば圧し掛かられている格好では、崩れ落ちるエビルオルクの身体避けられず下敷きになったのだろう。
「ククッ……! おい、無事か?」
「ッ……!! ッ……!!!」
「ハハッ……!! ったく……仕方のない奴だな……」
「――ッ。ぷはっ!!! はぁ……はぁ……ッ!!!」
テミスが傍らへと辿り着いて尚、バシバシとエビルオルクの死体を叩き続ける手に問いかけると、元気に動く手は怒りを露にするかの如く拳を握り、当てどなく振り回される。
その様子にテミスは再び笑いを零すと、エビルオルクの漆黒の毛皮をむんずと掴み上げ、下敷きとなっていたフリーディアを引きずり出した。
「あ~……」
ひとまず怪我は無いらしい。そう安堵したのも束の間、呼吸を乱して新鮮な空気を貪るフリーディアの姿は、テミスの想像以上に酷いもので。
身に着けている服や装備は余すことなく地と泥に塗れ、丁度傷口のあたりが覆い被さっていたせいか、まるでバケツ一杯の血を頭からかぶってしまったかのように、顔や髪もべっとりと鮮血で汚れていた。
「っ……!! ごめんなさいテミス。助かったわ。でも、もう少し早く助けてくれても良かったんじゃないかしら?」
「ヴッ……!」
ぜいぜいと数度荒い呼吸を繰り返して息を整えた後、フリーディアはゆっくりとテミスの方へと歩み寄りながら、礼と苦言を口にした。
けれど、眩く輝いている筈の金髪から大量の血を滴らせるフリーディアは、その姿もさることながら恐ろしい程に生臭く、流石のテミスも引き攣った笑みを浮かべると、静かに一歩後ずさって距離を取った。
「何よその顔……人を化け物を見るような目で見てくれちゃって……。何か答えたらどうなの?」
「いやっ……あぁ、悪かった。必死で飛び込んだものだから余裕が無くてな……」
「ふぅん……? そういう事なら……? まぁ……いいけど……」
しかし、フリーディアは己が惨状に気が付いていないのか、後ずさったテミスにじっとりとした視線を向けると、まるで何事も無いかのように言葉を続ける。
その、ぽたぽたと滴る血の音と、何よりも鼻を衝く悪臭によって迫力を増した姿に、テミスが思わず本心を伝えると、フリーディアは何故か照れたように頬を掻くと、明後日の方向へと視線を向けた。
「…………」
これは、私の鼻がおかしいのか……?
己の状態にあまりにも反応が無いフリーディアの様子に、テミスは自身の感覚に不安を覚えはじめる。
だが、視覚と聴覚と嗅覚が声高に訴えかけてくる真実に堪え切れず、テミスは意を決して問いかけるべく重々しく口を開く。
「なんと言うか……その……フリーディア?」
「ッ……!! 言わないでッ!! わかってる! わかってるからッ!!」
しかし皆まで言うまでも無く、何を問われるのかを察したらしいフリーディアはビクリと肩を跳ねさせると、声の端を震わせながら必死の叫びを上げる。
つまるところ、フリーディアも己の惨状に気付いてこそいるものの、どうやらそれを現実のものとして受け入れ難いらしい。
「……諸々の処理は私がやっておく。幸いにも川はすぐそこだ、お前はひとまずそのまま水を浴びて来い」
「うぅっ……ありがとう……そうさせてもらうわ……」
フリーディアとて年頃の乙女だ。ここは黙してやるのが乙女の情けというものだろう。と。
テミスが静かにそう告げながら道を開けると、がっくりと肩を落としたフリーディアは、フラフラとした足取りで川の方向へと向かって行ったのだった。




