1293話 魔物の本能
「ハハッ……怒り心頭だな。ま、そりゃそうか……お前のような暴れん坊と、好き好んで相対しようとする奴なんざ居やしない」
軽い言葉と共に皮肉気な笑顔を浮かべながら、テミスは猛るエビルオルクの前へと進み出る。
しかし、その手に携えられた剣が構えられる事は無く、悠然と肩に担がれていた。
そんなテミスの数歩後ろでは、腰を落としてショートソードを構えたフリーディアが、ジリジリとした動きで再び横へ距離を取り始めている。
「痛いのは初めてか? ン……? そうだよなぁ……捕食者っていうのはただ、自分より弱く、逃げる奴の尻ばかりを追いかけているだけの臆病者だ。だからこそ、相手の強さを見誤るとこうなる訳だが……」
蔑むような言葉で、身に纏った雰囲気で、テミスはエビルオルクを挑発すると、肩に担いでいた剣の刀身を静かに起こすと、八双に似た構えを取って足を止めた。
一方で、エビルオルクも言葉は理解できずとも、テミスの挑発的な雰囲気を感じ取ったのか、喉の奥からカロロロロ……と低い唸り声を漏らし、凶悪な鋭さを誇る牙をむき出しにする。
「ククッ……確かに、少しばかり慎重になり過ぎていたかもしれん。しっかりと踏み込めば斬れるのだ、一太刀で斬り殺してしまえば反撃など考える必要も無いな?」
エビルオルクが自らに対して見せた交戦の意志に、テミスはニヤリと笑みを浮かべると、飛び込むための準備として、足元に転がる石の一つを踏みしめた。
いわばこの石は、スターティングブロックの代わりという訳だ。私なりの小賢しい知恵の一つではあるが、ただ真正面から斬り込むよりも、多少なりとも迅さと威力が増すだろう。
「さて……」
準備は整った。と。
視界の隅で森の側まで移動したフリーディアが頷いたのを確認すると、テミスはエビルオルクへ斬りかかるべく小さく深呼吸をする。
戦いではあるものの、あくまでもこれは狩り。一対一の正々堂々など、利性を持たぬ獣を相手に介在する余地も無く、我々の目標はいかに迅速にこのエビルオルクという獲物を仕留めるかだ。
だからこその二対一。私が意識を惹き付けてからフリーディアが攻撃を加えるという、基本のコンビネーションに変更は無い。
「行くぞォッ!!」
猛進する直前。
脚に力を籠めると同時にテミスは叫びを上げ、真正面からエビルオルクへの突進を敢行した。
人間離れしたテミスの脚力に蹴り抜かれた石が宙を舞い、弾丸の如き速度でテミスの身体が前方へと射出される。
飛び出したテミスの足は一度たりとも不安定な地面を踏みしめる事は無く、ほぼ一直線にエビルオルクへと肉薄した。
――捉えた。
剣に力を籠め、今度は背中側から、自らが一度付けた傷を狙って剣を振り下ろしながらテミスがそう確信した時だった。
「っ……!?」
突如としてテミスの眼前からエビルオルクの姿が掻き消え、眼前を薙いだ剣が丈の高い下草を切り裂く。
「なにッ――」
「――くぁッ!!?」
「フリーディアッ!?」
直後。
テミスは自らの横から響いた悲鳴に跳ねるように視線を向けると、剣を振り切った姿勢のまま悲鳴の元へと駆け出した。
到底信じられない事だった。
本能のままに動く獣が、眼前で襲い掛かるテミスを無視して、背後に回り込んでいたフリーディアを襲ったのだ。
滾らせていた怒りは本物だろう。だが、テミスを威嚇するかのように剝きだしていた牙も、突進へ応ずるかのように低く落とした姿勢も全て欺瞞。
エビルオルクは、眼前に並ぶ二つの脅威を正しく認識し、己が守りを貫く力を持つテミスよりも先に、がむしゃらに己が右目を奪ったフリーディアを倒す事を優先したのだ。
「クソッ!! 獣風情が小賢しい真似をッ!!」
テミスは忌々し気にそう吐き捨てながら、不安定な地面を蹴ってさらに加速する。
不意を打たれたフリーディアは、辛うじてその咢を剣で受け止めたものの、突進を躱すまでは至らず、大きな木に背中を預けてエビルオルクの攻撃に抗っていた。
だが、野生の膂力に人間の腕力が適うはずも無く、エビルオルクはその巨大な口で胴をまるごと齧るつもりなのか、フリーディアの身体へと覆い被さった。
「舐……めるなァッ……!!」
しかし、エビルオルクの鋭い牙がフリーディアの柔肌を裂く前に。
怒りの叫びを上げたテミスの強烈な一撃が、エビルオルクの横っ腹に叩き込まれる。
その一撃はエビルオルクの身体をよろめかせたものの、命を絶つには至らず、その咢はフリーディアへと向けられたままだった。
だが、テミスはエビルオルクの身体を切り裂いた剣をそのまま振りかぶると、身体を閃かせて今も尚ドクドクと赤黒い血が溢れ出ている落ち窪んだ右の眼窩へと、その切先を叩き込んだのだった。




