1289話 悪魔との遭遇
さらさらと清涼な音を響かせて流れる小川のほとりにそれは居た。
優に五メートルは越す巨大な体躯に、影に溶け込む艶の無い闇色の毛皮。その胸元には、悪魔が微笑んでいるかの如く、白い体毛が三日月形にくっきりと浮かび上がっていて。
「ッ……!!! エビルオルスだとッ……!?」
その姿を視認した瞬間、テミスは全身を駆け抜ける寒気を堪えながら鋭く息を呑んだ。
エビルオルス。その名に冠された悪魔の名が示す通り、熊系統の魔物の中でも一際危険な種類なのだ。
しかもこの魔物は質が悪いのは、視界に捉えた生物全てを敵と見做す凶暴さは元より、たとえ満腹であっても獲物を半死半生のまま保存する習性があり、その様はまるで生物を殺す事を愉しんでいるかのように嬲っていると称されるほどで。
無論。そんな魔獣であるが故に、発見されれば即、冒険者ギルドから緊急の討伐依頼が発行される。
「テミス……あれ……」
「シッ……!! 喋るな。退くぞ。流石に相手が悪い」
「っ……!!」
テミスの言葉に草むらの中から僅かに身を浮かせ、フリーディアは声を潜めて口を開く。
だが、即座に伸びたテミスの手がフリーディアの身体を草むらの中へと引き戻すと、静かな声が鋭く指示を下した。
浅い川の真ん中で水浴びをするエビルオルスから、テミス達が身を隠している地点までの距離は約三十メートルほど。
これは、巨躯を持つエビルオルスにとっては、僅か数歩で詰めることの出来る距離であり、それは即ち、あの凶悪な威力を持つ爪や牙の射程圏に足を踏み入れていることを意味している。
そして同時に、エビルオルスの鼻先にも等しいこの距離は、運が良ければ気が付かれない程度の意味しか持ち得ない。
「運がいい……今ならばまだ逃げられる。決して目を離すな。ゆっくりでいい、距離を取るぞ」
「…………」
鬼気迫るテミスの様子に眼前の魔物の強力さを察したのか、フリーディアは囁き声で出されるテミスの指示に頷くと、草むらの中でゆっくりと後ずさりを始めた。
対して、エビルオルスは未だ川の真ん中で身繕いの最中で。
よくよく目を凝らしてみると、対岸の草むらの中にエビルオルスに喰い殺されたらしき魔物の死骸が転がっていた。
「ッ……!!!」
重苦しい緊張感の中、テミス達は一歩、また一歩と慎重に草むらの中を這い戻っていく。
仮にこの場所で戦いになれば苦戦は必至。周囲が開けているお陰で辛うじて剣を振り回す事はできるものの、背丈の短い草に覆われた地面は至る所に大きな石が転がっているせいで酷く足場が悪い。
幸いな事に群れる種類ではないため、エビルオルスは一体しか居ないが、いっそのこと突撃を敢行したくとも、水の流れに足を取られる川の中で戦うのは自殺行為だ。
しかし、エビルオルス自身が狩った魔物の流す血がテミス達の匂いを覆い隠し、川の流れが多少の音を掻き消してくれている。
不幸中の幸いとも言うべき現状に感謝しながら、テミス達がじわり、じわりと距離を空け、エビルオルスの姿が大型犬ほどの大きさにまで小さくなった頃。
「…………」
「っ……!」
テミスとフリーディアはどちらからともなく顔を見合わせると、言葉を交わす事無くコクリと頷き合った。
それは、ここまで距離を離せば、身を翻して逃げ出しても大丈夫だ……。と二人の意見が一致した合図だった。
故に。テミスとフリーディアは同時に森の中へと走り去るべく鮮やかに身を翻す。
瞬間。
――がちん。と。
何かがぶつかり合う音が周囲へと響き渡ると共に、二人の腰に軽い衝撃が駆け抜けていく。
不運としか言いようのない偶然。
強いて言うのならば、テミスもフリーディアも、慣れない武器を身に帯びていたのが原因だろう。
同時に身を翻した結果、腰に提げていた二人の武器が打ち合わされる形で接触してしまったのだ。
普段ならば、気付く事すら無いかも知れない程に小さな雑音。
しかし、確かに奏でられてしまった『異音』は静かな森の空気を揺らし、間近に居合わせた一頭の獣に間抜けな獲物の存在を報せる。
「――ッ!!! 構えろッ!!! 絶対に攻撃を受けようとするなッ!! 死ぬ気で避けろッッ!!」
グルゥォォオオオオオォォッッッ!!! と。
背後から響き渡った魔獣の雄叫びに、テミスは鬼気迫る表情で叫びを上げると、即座に腰の剣を抜き放って再び身を翻す。
見付かってしまった以上、最早戦闘は避けられない。
そう察してからの二人の動きは素早く、猛進を始めたエビルオルスが川から上がる前に体勢を立て直していた。
「了解ッ!!」
そしてそのまま、テミスとフリーディアは息の合った動きで左右に分かれると、各々がエビルオルスの突進に備えて低く身を沈めて構えを取ったのだった。




